第4回 眼が縦についている

沢村のライバルとして第一に名前が挙がるのが景浦将(松山商-立教大-タイガース-戦死)である。
中学-大学-プロを通じて投打に活躍、昭和11年には防御率1位のタイトルも取っているが、やはり打撃の人。
フライを打ち上げると煙草が一服できるくらいに上がり、それから「ドスーン」と落ちてくるから怖かったという。
痛烈な打球にショートが近寄ると、走りながら「危ないっ!捕るな!」と叫んだという。もちろん冗談のつもりだったのだろうが、当時のグラブのチャチさを考えると実際に危険はあったろう。
職業野球初代王者決定戦で、沢村のドロップを洲崎球場場外に叩き込んだ「太平洋ホームラン(洲崎球場場外は東京湾だった)」はあまりにも有名。
なぜ沢村のドロップを打てるか人に聞かれて、「俺の眼は縦についている」と答えたそうだ。
年下の選手を連れて、ダンスホールへよく通った。持ち前の親分肌の気性で気前よく金を使った。ダンスホールにとっては願っても無い上客であった。その上、力士顔負けのでかいお尻の景浦のステップは、ひときわ光っていた。風貌に似合わず天性のリズム感の持ち主であった。
バッティングにリズム感は欠かせないと言うが、彼のバッティングにはこの天性のリズム感が活かされていた事は間違い無いだろう
フィリピン・カラングラン島で分隊の食糧を調達に出かけて還らなかったという。松木謙二郎は二リーグ分裂で弱体化したタイガースの監督を引き受けて苦闘していたとき、景浦が生きて還って自分を助けてくれる夢を何度も見た。
ちなみに、対沢村の打撃成績は43打数8安打3打点、四球3、三振6。通算打率.186(宇佐美徹也氏調べ。公式戦のみ)。ただし、優勝決定戦も含めると66打数15安打1本塁打、打率.227となる 。
1942(昭和17)試合開始前に、手りゅう弾投げ競技が行われるようになる。
1943(昭和18)野球用語の日本語化を決める。ユニホームは、原則としてカーキ色、帽子は戦闘帽となる
1944(昭和19)日本野球連盟は日本野球報国会と改称。
投稿者: HURUHARA
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