第5回 後楽園イーグルス

 後楽園イーグルス(1937年) イーグルス(1938年) 黒鷲軍(1940年途中) ... 建設中の後楽園球場(同年9月11日竣工)に先立ち、同球場直属の職業野球部として押川清・河野安通志らにより、後楽園イーグルス(後楽園野球倶楽部)が結成 。

 フランチャイズ構想のもとに球場が球団を経営する形態をとったが、経営不振から両者の意見に相違があり1938年10月に経営関係を解消。

 大日本麦酒(現・アサヒビール、サッポロホールディングス)を率いた政界の長老・高橋龍太郎(戦後、高橋ユニオンズを経営)がスポンサーとなり球団名をイーグルスと改名。

 1940年9月15日の理事会で球団名を日本語に統一することが決定され、10月6日イーグルスから黒鷲軍(くろわしぐん)に改称。
 赤字経営は変わらず、1942年途中に鉄工所・大和工作所が買い取り9月12日から球団名は大和軍となった。1943年シーズン終了を以て解散。

 1945年第二次世界大戦が終わると、河野は新球団「東京カッブス」を結成した。大和軍の選手が中心であり、実質的に後継といってよい球団だった。
 
河野は日本野球連盟の鈴木龍二会長に加盟を申請した。鈴木は東京巨人軍代表の市岡忠男に打診した。すると、市岡は猛反発し、その結果加盟審査に掛けられることなく葬られてしまった。
 河野は翌1946年1月に亡くなったがチームは存続し、これが国民リーグ・結城ブレーブスへとつながっていく。

 結城ブレーブスは、昭和22年、小西酒造店の酒蔵を工場に、自転車の部品メーカーとして成功した土手社長が、下館を中心とした県西地方の野球ブームに乗じて、本格的なプロ野球の地方リーグを創ろうとして、社長と同郷である広島の石本秀一氏を迎えて結成した球団である。

 濃人、門前、林、道仏、田部等、後に日本野球を背負って立った、そうそうたるメンバーを揃えていたが、当時の結城には硬式野球のできるグラウンドがなく、練習不足と試合の相手に困っていた。
 そして、結城ブレーブスは、昭和22年の1シーズンだけであえなく解散してしまった。

 興行的に成立たぬうえに、選手達は、人一倍大食漢で三段腹が多いときている。いくら結城が米麦の産地としても、それ相当の費用がかかる。
 関係者の話では、石本監督以下選手10数名の給料、食費の合計が1か月50万円かかっていたと言うから、たちまち親会社の府中産業まで、倒産に追いこまれてしまいました。
 給与所得者が1月500円ペースの生活をしていた頃だから、現在の物価に換算したら数千万円の出費であったろう。

 さて昭和22年のリーグ戦を終えた秋のある日、結城ブレーブスは最後の試合を後楽園で行った。相手は念願の巨人軍である。
 川上、千葉、青田、中上、白石と強者を揃えたベストメンバーとの対戦は、選手達の血を、いやが上にもかきたたせた。アマチュアの全小山を相手にもたついたことなど、信じられない程の強さを発揮して、再三、巨人を窮地に追い込んだ。

 試合は、結局、延長の末6対5で敗れはしたが、名実共に日本一の巨人軍それも戦後第1期黄金時代に入りつつあった豪華メンバーを相手に、片田舎の結城から出たチームが堂々と互角の戦いをしたのであった。
 
 それは結城ブレーブスの最後の大花火であった。


投稿者: HURUHARA


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