寂れたスナックで語る物語 第一話 「ある本屋での物語」
それでもマスターは、客を迎える準備をしながら、ふと、だれもいない店内の一点に向かい、
「そういえば亜喜夫の姿が見えないわね」とつぶやく。
ときおり蝋燭が「ジジッ」と音を立てて炎が揺らぎ、そのたびにマスターの陰影が揺らいだ。
マスターは「誰かに語りかける」というでもなく、亜喜夫の話を始めた。
亜喜夫がその本屋に入ったのは気まぐれでしかなかった。
投稿者: K.Miyamoto



「ある本屋での物語」
通りを歩いていると路地から少し入った所に本屋が見える。古くさい店だ。こんな場所で、しかも寂れた店に客が来るのだろうか?
窓ガラス越しに店の中を見てみると案の定、客などいない。
だが意外にも店主は女性で若かった。
亜喜夫は店主に惹かれて店のドアを開け、中に入った。
「いらっしゃいませ」
なおざりな挨拶をする店主だ。椅子に座ったままの店主は机上に広げた本から顔を上げることはない。本を買うかどうかわからない客にいちいち頭を下げて挨拶していられないのだろう。「仕方がないか」と亜喜夫は思った。
本棚の間をすり抜けて奥に行くと、他の本屋には無い興味深そうな本が並んでいた。亜喜夫は棚の中から無造作に一冊を抜き取り、表紙をめくれば、一ページ目に「いらっしゃいませ」と言って頭を下げる店主が現れた。必要もないのに、亜喜夫はページの中の店主に向かって慌てて頭を下げた。
窓越しから見て気を惹く人だと思ったが、間近で見ると一層好ましい。亜喜夫は本の中の店主と話をしてみたいと思った。
次のページをめくると、
「私と話をしたいのでしょう」
笑顔で語りかける店主がいる。
「その通りだが……」
そこで亜喜夫は、「最新の仕掛けが本に施してあるのでは」と、気が付く。本をめくるとスイッチが入り、店主の映像が表れて、双方向で話しができるという類(たぐい)のものだ。もしかしたらどこかにカメラが備えて有り、店主もそこから亜喜夫の姿を見ているのかもしれない。それならば、この本を売ってくれと言っても売らないだろう。亜喜夫に意地悪な気持ちが芽生えた。
さっそく本を手にしてレジに向かった亜喜夫は「これを下さい」と言って店主に本を差し出した。店主は本から顔を上げ、受け取った本の背表紙をめくる。
価格などを確かめるふりをしている、と思った亜喜夫は、「あなたは今、この本を通して私に語りかけたでしょう」 と、頭ごなしに言った。
店主は「何を言っているのか分からない」という顔付きで、亜喜夫の思った通りに、
「この本は売り物ではありませんのでお譲りできません」と答えた。
「当たり前だ ! 店の備品を売るわけがないだろう、この店は仕掛けた本で客の反応を見て面白がっているのか」
謗(そし)る亜喜夫に、戸惑い顔の店主は意外なことを打ち明けた。
「どのようなご迷惑をかけたのかは分かりませんが、本屋には長い間売れずにいて行き場所を失った本が何冊か有りまして、それらが時たまいたずらをするのです。存在を忘れないでくれ、とでも訴えているのでしょうか」
「この本がそうだと?」
店主はぎこちなくうなずいて認める。一瞬、目に怯えが浮かんで見えた。
「そんな馬鹿な」
「疑うなら、先ほどの続きを読まれてはいかがですか」
本を戻して寄こした。そう言われて改めて本を眺めると、電気コードなどの付属品は全く付いていない。どこから見てもいつも見かける本だ。本を持って棚の前に戻った亜喜夫は何気なく数ページをまとめてめくる。すると、ページに現れた店主は、
「これから先はあなたと私だけの秘めた話しになるので、プライベートルームで読んで欲しい。そうでないと、人目が気になって話しを進められない」
そう言ってページの中の店主は背を向けた。
「あなたと私だけの秘めた話? いったいどんな話しになるのか」
亜喜夫は気になってしかたがない。亜喜夫は再びレジに向かい見たままを話すと、店主は店から奥まった所にある個室へ案内した。この本屋は個室で試し読みしたいという希望者が多いのか、狭い室が規則正しく並び番号が割り振られている。まるで本のページのような室だと亜喜夫は思った。
室に入って椅子に座った亜喜夫がさっそくページを開けば、「これで人目を気にしないで済むわね」、そう語りかけながら、人待ち顔の店主が現れる。
「二人きりになれるのを待っていたわ!」
「私も同じだ、初めて会った時から……」
待ち焦がれた仲というのにどうにも間の抜けた会話だ。亜喜夫は焦ったがすぐに気を惹くような言葉が見つからない。物語が進んでこれから二人だけの秘め事を話そうというのに、今さら相手の素性を聞くのもおかしな話である。
当たり前だ。亜喜夫は話の先が気になって途中のページをすっ飛ばしたものだから、互いの話に脈絡もなく、まともな受け答えをできるはずがなかった。亜喜夫は店主の身の上など何も分からないのだから。
とはいっても、物語の展開が気になる亜喜夫は最初から読み直してなどいられない。会話がつながらないまま互いの仲だけが進展するという、奇妙な物語の展開になった。
店主は妖艶な声でささやく。
「時間を飛び越えてあっという間に、私とあなたは恋人」
気になる店主から「恋人」と言われ、亜喜夫は舞い上がった。早く店主と「わりない仲」になりたい。亜喜夫は期待に震える指で性急に本のページをめくる。
物語が進んだことを示すように、店主は恥じらうこともなく亜喜夫に体を寄せて座った。
相変わらず二人の間で、気の利いた会話は無いが、店主は恋人だという亜喜夫の心をつかんで離さず、もはや亜喜夫は現実のことなのか、はたまた、物語に登場する人物になったのか、分からなくなった。
だが今の亜喜夫はそんな事などどうでもよかった。隣に座った店主はいつの間にか亜喜夫の太ももに手を置き、すでに亜喜夫は夢心地の半ばにいるのだから。
「このままでは物足りないわ、もっと話しを先に進めて」
店主の甘い声で、亜喜夫は夢心地から覚めた。
「なんだ、話しの中のひとコマだったのか」
亜喜夫の太ももには今も、店主の手の感触が生々しいのに。
「話しを先に進めて」と言われて、亜喜夫は次のページをめくろうと思い、本を探したが手元に見当たらなかった。先ほどページをめくった後で確かに机の上に置いたはずだ。本がなければ店主と会話ができなくなる。
「どうしたの?」
「それが……、 本がどこにも見当たらない。あれがないと」
「会話ができない」と、続けようとして亜喜夫は「えっ!」と驚いた。
店主と会話ができるのはページの中でのはずだ。それが、ページを見てもいないのに側に店主がいて、亜喜夫と直に話しのやり取りをした。
「本に書いてある物語なんか気にしないで、二人で思うように物語を紡いでいけばいいじゃないの。それが本の内容だと思えばそれで済むこと」
ページを離れた店主は、いとも簡単なことだと言わんばかりだ。
亜喜夫は話が何だか旨すぎる気もしたが、店主の言うことに一理ある。物語の「筋書き」などに囚われなければ、亜喜夫は店主とより親密に、味わう喜びもより深いものになるだろう。
「もっと、話しを先に進めて、と言うのはそう意味だったのか」
納得した亜喜夫は店主との熱愛物語を頭の中に描いた。
読者の視線を浴びる亜喜夫は読者の関心を引き付けなければならない。速やかに話を進めなければ読者に置いて行かれる。
それからの亜喜夫は大胆になった。店主を引き寄せた亜喜夫はやおら乳房を掴み、店主も負けぬと亜喜夫の体に触れ、これまでにない刺激を加える。
いやはや、凄まじい展開となった。
だが、亜喜夫が夢中になって店主の体に触れてもそこから先へは進めない。店主といい仲になって、夢心地になってもそこまで。
亜喜夫と店主が「わりない仲」になるには程遠かった。
精根尽き果てて床に倒れ伏した亜喜夫は、偶然、床に落ちている本を見つけた。先ほど開いたページのままになっている。そのページの数字を見て亜喜夫は愕然とした。確かその数字は入る時に見た室の数字だったと記憶がある。
「そんな馬鹿な」
亜喜夫は慌てて前後のページをめくったがどれも白紙ばかりだ。そればかりか本から顔を上げると店主の姿が見えない。
室の中央でただ一人、呆然と立ち尽くす亜喜夫。
やがて「パタン」と音がする。全ての室が閉じて一冊の本になり、その本を抱えた店主は、
「これでまた一ページが完成した」
ニヤリとして言いながら、本を棚に戻した。
語り終えたマスターは、「誰も来ないわね」と、溜息を吐いた。
蝋燭がジジジッと音を立て、影が揺らめいた。
いかにもさびれたスナック。蝋燭の灯りだけの店内は薄暗く、陰気な感じがした。
マスターの他には人の姿が見えない店内に、息づかいの気配がある。
カウンターの上に本が一冊。それと、誰かが使っていた腕時計が一個。
スナックに似合わないものばかりだ。
風もないのにカウンターにある本がめくれ、蝋燭が一瞬明るくなって紙面を照らした。
「あっ、亜喜夫はそこにいるのだったわね。ごめん、あまりにも身近すぎて存在を忘れていた。ありがとう、先ほど話した本屋の部分を開いてくれたの」
店内に存在する気配の主は、マスターの言葉に応えてか紙面がざわざわした。
「亜喜夫を閉じ込めてしまったけど、もう一人、閉じ込めた人がいる」
「分かっている」とでも言いたげに、次のページが自然にめくれた。
蝋燭がジジジッと音を立て、腕時計が「私の出番だ」と言わんばかりに「時を刻む音」を店内へ響かせる。
マスターはページに目をやるがすぐにそらし、腕時計を見つめながらそらんじた第二話を話し始めた。
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