ラーメン狂騒曲 (ショート・ストーリー)
息子のリクエストで夕食はラーメンということになった。
途端に妻が張り切り始め、冷凍庫から得体の知れない骨を大量に引っ張り出してくる。俺は、そいつが寸胴で煮込まれる寸前に身体を張って阻止した。
深夜にたたき起こされて「スープの仕込みに六時間掛けましたのよ。どうぞ召し上がれ」なんて言われても辛いだけだからだ。
第一、それまで空腹でいろというのもひどい話である。
投稿者:クロノイチ
← クリック投票に協力を! 編集部・執筆陣のやる気がUPします!
途端に妻が張り切り始め、冷凍庫から得体の知れない骨を大量に引っ張り出してくる。俺は、そいつが寸胴で煮込まれる寸前に身体を張って阻止した。
深夜にたたき起こされて「スープの仕込みに六時間掛けましたのよ。どうぞ召し上がれ」なんて言われても辛いだけだからだ。
第一、それまで空腹でいろというのもひどい話である。
投稿者:クロノイチ



そこで俺は、少々家から離れたところの、とあるラーメン屋に行くことを提案した。ハンバーグラーメン専門店という風変わりな店だ。家族で訪れるのは初めてだが、俺は何回か食べに入ったことがあり、味は保証できる。この店の最大の特色は、ラーメンにハンバーグが乗っていることではなく、一杯ごとにスープを最初から作っていることだ。驚くべきことに、業務用スープやうま味調味料を使うこともなく、ダシ取りから始めてものの十分でスープを完成させる。鶏ガラや豚骨を数時間も煮込むような作業はどこにもない。それでいて、出来上がったスープは実に複雑で濃厚な味わいを醸し出すのである。
そんな工夫の素晴らしさを妻に知ってもらいたくて、俺はその店を選んだ。店名は「ハンバーメン」。
──うん。店の名前はもっと工夫してほしかった。 うまそうな感じが微塵もしない。妻と息子に店の名前を告げるのをためらわせる残念さがあった。俺なら、うーん、「ヌードルバーグ」にするかな。ラーメン界のヌーベルバーグって意味で。
「どのお店に連れて行ってくれますの?」
「いやあ、ちょっと変わってるけど、おいしい店なんだ。確か君は初めてのはず。行ってみてのお楽しみだよ」
などと誤魔化しながら俺は、ラーメン屋に車を走らせた。
車を降りて店の看板を見上げた妻と息子はどことなく引いている様子だったが、外観が新しく客もそこそこ入っている雰囲気だったので、特に文句を言うこともなく店に入ってくれた。
「いらっしゃりーー!」
日本語として正しいかどうかもわからない奇妙な大声がこじんまりとした店に響き渡る。俺は脇目もふらず一直線にカウンター席の中央に座った。右側に妻が、さらにその右側に息子が腰掛ける。息子、恐るべし。今のくつろいだ状況で一瞬の迷いもなく俺の隣の席を避けるとは、まさしくマザコンの鑑と言えよう。偽装だけど。
「テーブル席が空いてますのに……」
妻が小声でクレームをつけてきた。
「いいんだ。君にここの調理風景を見せたくてね」
「変わってますの?」
「まあね」
「メニューも変わってますのね。ハンバーグラーメンとご飯と飲み物しかありませんわ。ギョーザもチャーハンもないなんて」
「調理は一人でやってるからな。手間の掛かることはできないんだろ」
「水、要るよな」
息子が水の入ったコップをお盆に乗せて運んできた。ちゃんと三人分ある。セルフサービスの水を俺の分まで持ってきてくれるとは予想外だった。店では大っぴらにマザコンアピールができないから、細かいサービスの違いで俺と妻との間に格差を作り出してくるものとばかり思っていたのである。
「あら、マイサン、家族全員の水を持ってきてくれましたのね。気が利きますわ。素敵ですわよ」
「そんな、褒められるようなことはしてないよ」
「まあ、なんて謙虚なんですの。さすがはマイサンですわ」
なるほど。こういう気に入られ方もあるわけだ。息子としては狙い通り──というわけじゃないな。かなり恥ずかしそうにしてやがる。この店、狭いから会話が周りにだだ漏れだ。なるほど。母親の機嫌は取りたいが、周囲にはマザコンと思われたくないと。この贅沢人間め。
ちなみに俺は贅肉人間である。ほっとけ。
「ええと、ハンバーメン二つと大盛一つ!」
俺は武士の情けで、妻と息子の会話を断ち切ってやった。
「バーメンツー! バーメン大ワン! うけたまわりーー!」
大将の大声が響き渡る。バーメンって、略し過ぎだろ。もはやハンバーグラーメンを想像することすらできない。
さて、肝心のハンバーグラーメンの作り方だが、あらかじめスープを仕込んでおかないだけあって、具とスープを先に作ることになる。麵を茹で始めるのは少し後だ。
まず厨房で目を引くのは、ボウルの中に山と積まれた大量のハンバーグである。ハンバーグ一個の大きさはかなり小さい。大きめの肉団子を小判型に潰したような感じのミニハンバーグだ。以前大将に聞いた情報によれば、材料は牛と豚の合挽肉とおろし生姜と香辛料と塩で、パン粉などのつなぎは入っていないらしい。そして、手の熱が伝わらないようにしつつ粘りけが出るまでよく捏ね、種を作るのだという。
で、その種をラードで炒めて半分ほど火が通ったものを開店前に作りまくって、冷蔵庫にストックしておくわけだ。ボウルに積まれたハンバーグはその一部であり、従って半焼け状態である。
大将は小さめの片手鍋に水を入れると、まず昆布三枚と出汁パック三つを投入した。この出汁パックには干し貝柱と干し桜海老を粉砕したものが入っていて、大将の手製である。昆布一枚と出汁パック一つが一人前の分量なのだろう。
ちょうどお湯が沸騰する寸前で、大将は鍋から昆布と出汁パックを引き上げ、弱火にした後、酒と塩を少量ずつ加え、ハンバーグを十二個投入した。なぜ個数がわかるのかというと、以前一人で食べに来た時に四個入れていたからである。
「ハンバーグを煮込んで出汁を取るんですのね。ラーメンの上に乗せるだけと思ってましたわ。でも、肉から取った出汁って、丁寧にアクを取り除いたとしても、骨に比べて味が落ちるっていうか、雑味が多過ぎるような印象があるんですけど?」
妻がもっともな疑問を口にした。
「勿論、雑味はあると思う。けど気にならない。最初の昆布やらパックの出汁やらが、意味を持ってくるんだろうな。そいつがハンバーグの雑味と合わさって、力強い複雑なうま味を醸し出してるような気がする」
「そういうことならぜひ味わってみたいものですわね」
「僕も早く食べたいな」
すかさず息子が妻に同調する。誰に聞かれても恥ずかしくない台詞で見事に母親に追従していた。もはやプロだ。マザコンマスターである。
大将が別の十二個のハンバーグを今度は中華鍋で炒め始めた。再加熱してしっかりと火を通すのだ。そしてここからが正念場である。まず、三玉半の麵を大鍋で一度に茹で始めた。中太麵なので茹で上がりまでは、しばらく時間がかかる。その間にハンバーグの入った中華鍋にざく切りのキャベツと塩抜きしたメンマを加えて炒め、塩コショウを振った後、少量のゴマ油と薄口醤油で風味付けをしていく。
次いで大将は、あらかじめ温めてあった丼に大さじ二杯の醤油とたっぷりのラードとほんの少しの砂糖を入れ、上から出来立てのスープを注いでよくかき混ぜた。出汁取りに使ったハンバーグもそのまま具の一部として使われる。──お、どうやら、麵も茹で上がったようだ。鍋の中の麵を、大将が平ザルで一人前ずつ掬って手際よく湯切りし、丼に移していく。中華鍋の中の具を麵の上に並べ、小口切りのネギを適量乗せて完成である。後は好みで卓上の黒コショウやおろしニンニクを入れるのもいいだろう。
「はい、ハンメン大とハンメンお待たしーー!」
大将が俺達の前に勢い良く丼を置いていく。──おい、さっきと略称が違うぞ。半分しか麵が入ってないみたいで何となく嫌だ。
「結構ボリュームがありますのね。ハンバーグもたくさん乗ってますし……」
「八つだ。スープで煮込んだのが四つと炒めたのが四つ。チャーシューの代わりだな」
それ以外の見た目に特筆すべき点はなかった。キャベツ炒めの乗った、やや脂の多い濃いめの醤油ラーメンに過ぎない。
妻は両手を合わせて「いただきます」と言った後、まずレンゲでスープを一口掬って飲んだ。
「あら、おいしいですわね、これ。醤油の味はしっかり出てるのに、そんなにしょっぱく感じませんわ。出汁のうま味と挽肉の味とキャベツの甘みが、単純な醤油と脂の味をまろやかに風味豊かに引き立てているみたいですわね」
「気に入ってもらえてよかったよ」
俺はほっと一息ついた。この間のダイエット狂詩曲で無駄に舌が肥えてしまった妻を満足させられるかどうか、少し不安だったのだ。一方、息子については何の心配もしていない。こいつほど味の許容範囲の広い人間を俺は知らなかった。さっそく猛然たる勢いで麵をすすりまくっている。
「どうだ? うまいか?」
一応息子に水を向けてやると、
「ああ、最高だ。こんなおいしいラーメン初めて食べたよ」
と、感激した様子を見せた。
だが、こいつは何を食べても同じようなことを言うのである。決して感想を鵜呑みにしてはならない。何しろ息子は、卵かけご飯に醤油と間違って黒酢をかけ、なおかつそれに違和感を覚えないまま、うまいうまいと最後まで食べきった男である。去年受けた味覚検査で「正常」と診断されたのが不思議なレベルだった。本人に言わせると、味がわからないのではなくて、料理全体のうまさを味わうのに夢中になり過ぎて、今どの味覚が刺激されているかというところまで意識が回らないんだそうだ。──うん、嘘っぽい。
ま、とにもかくにも、このハンバーグラーメンはうまかった。今度から妻にはこれを作ってもらいたい。そのためにわざわざ厨房の見えるカウンターに座ったのだ。店では調理時間短縮のため下調理済みのハンバーグを使用しているが、おそらく挽肉を練るところから始めても、調理時間は一家三人で三十分とかからないはずである。
それで、調理手順を見て覚えられたかどうか、妻に尋ねようとして俺は異変に気付いた。
妻と息子が小声で言い争っている。珍しい。というか、家の中では全く見かけなくなった光景である。息子がマザコン言葉を使わず、まともに母親に言い返しているの見るのは何年ぶりのことか。何事かと思って息をひそめて聞いてみると、実につまらないことで諍いをしていた。
「マイサン、繰り返しますけどスープを全部飲むのはやめるべきですわ。大量の塩分と脂を一度に摂取するのは、身体に良くありません」
「お母さん、僕はまだ若いから、ラーメン一杯分の塩や脂ぐらいで、どうにかなったりはしませんよ」
うん、そうだそうだ。息子に一理あり。
「──だいたい、僕のことを言う前にお父さんを見てくださいよ。ただでさえ不健康そうな体型なのに、大盛りを完食してるじゃないですか」
おい、いちいち俺のことは言うな。
「お父さんはいいんですのよ」
妻が即座に言い切った。さすがは我が妻。話のわかるいい女だ。
「──もう、充分に生きましたから。マイサンの人生はこれからじゃないですか」
前言撤回。何だよ。俺はまだ若いし、当分生きるつもりなんだが。生きちゃ駄目なのか。
「ラーメンの命はスープなんですよ。それを飲まないのは、丹精込めて作ってくれた人に対して失礼じゃないですか。少なくとも店の人は、一滴残らず飲み干してほしいと思ってますよ」
「十分で作れるスープにそんな価値があるとも思えませんわ」
あちゃ。スープの仕込みの手軽さが、こんなところで裏目に出たか。
話がうまくまとまりそうにないので、俺は強引に打ち切らせることにした。
「ども、ごちそうさん」
伝票を持っておもむろに立ち上がる。
「ありがとやしーー!」
大将の大声が響き渡った。この変な語尾はわざとやっているのか? レジに向かうと妻と息子が慌てたように後を追い掛けてきた。
「あなた、急に自分一人で帰らないでくださいな」
「揉めてたみたいだったから、君の肩を持ってあげたんだよ。ほら、こいつのラーメンのスープの完飲を阻止できただろ」
「それもそうですわね」
「お父さん、僕の気持ちは考えてくれないんですか?」
息子にこんな口調で問い詰められるとどうも調子が狂う。妻はこのモードの息子をどう受け止めているんだろうか。
「レジの前で話すことじゃなかろ。先に出てな。なんか考えとく。お前ばかりに損を押し付けはしない」
そう小声で息子に言ってから、大将に伝票を渡した。息子は納得したようだ。
「ハンバー大一丁とハンバー二丁ね。二千三百円でしーー!」
また略称が変わった。もはや麵ですらない。代金を渡すと大将は何度もお辞儀をし、最後に、
「またのお越しをお待ちしております!」
と普通に言って俺を見送ってくれた。言えるのかよ。
さて、店から出て駐車場の方に行くと、車の脇で妻と息子が和やかなムードで会話していた。
「ごめんよ、ママン。スープが最高においしかったんで、どうしても全部飲みたかったんだ。でも、ママンが僕のことを気遣って忠告してくれてたのは理解してる。僕が浅はかだったよ」
「いいんですのよ。ママンはマイサンが自分の意見をはっきりと言えるのを知って、とっても嬉しく思いましたわ。随分と成長しましたわね」
「ありがとう、ママン、大好きだよ」
「ママンもですわ」
いつものことなのだが、俺を妙に苛つかせる会話である。遠慮なく割って入るとしよう。
「お待たせ。さ、帰るか」
「あら、早かったですわね」
「普通だよ」
「僕への埋め合わせは考えてくれた?」
「まあな。車の中で話すよ」
それにしても……。
なるほど。妻は自分に楯突く息子に、精神的成長を実感して喜んでいたのか。息子もそういう雰囲気を察して、敢えて食い下がったのかも。常にマザコン丸出しで従順なふうを装うのは、相当ストレスの溜まる仕事だと思う。たまには本音をぶちまけるのも息抜きになっていいかもしれない。
俺は車を運転しながら、後席の息子にこう言った。
「さっきの件だがな、俺とゲームをしよう」
「は?」
怪訝そうな声が聞こえる。
「ゲームで俺に勝てたら、俺は未来永劫お前がラーメンのスープを飲み干すことに反対しない。母さんもだ。お前が負けたら、今後スープは諦めろ。──そんなんでどうだ?」
おお、という嬉しそうなニュアンスを含んだ声が車内に響く。
「面白そうだね、それ。──けど、ママンは納得してくれるの?」
「いいですわよ。お父さんに勝てたら、好きにして構いませんわ。マイサンの健康は心配ですけど、ママンが他のところで挽回してみせます」
おいおい、どこで挽回する気だ? 摂り過ぎてしまった塩分と脂──帳尻を合わせるためには……まさか、あれか?
俺は妻の作る激薄味のダイエット食を思い浮かべた。恐ろしい。あれをうまいと褒めたたえながら食べなきゃならなくなるのか。とてつもなく嫌である。是が非でも御免被りたい。
これで俺は、是が非でも勝たなくてはならなくなった。負けても俺には何の損もないと見越して、気楽にゲームを持ち掛けたのに。ああ、何ということだ。
「じゃあ、何で勝負しようか?」
俺の気も知らずに息子がやる気満々で訊ねてくる。
「公平を期すために母さんに決めてもらおう。母さん、何か面白いゲームはないか?」
「そうですわね……」
妻が助手席で考え込む仕草を見せる。
「食品スーパーに寄ってくださいな」
「え?」
俺は驚きを禁じ得なかった。まさか妻よ、取って置きのあのゲームを今やるのか?
「買い物ゲームをします」
そのまさかだった。将来、息子が反抗期に入った時に、円満に親の言うことを聞いてもらうために夫婦で練り上げた必勝ゲーム。勝負事が好きな息子の心理を巧みに利用した秘策だ。そいつをたかがラーメンのスープのために使うなんて。
「初めてのゲームだね。楽しそうだ」
何も知らない息子が言った。すまんな。もう俺にも止められない。敢えて反対する合理的な理屈が見つからないのでな。
まあ、今度のゲームにイカサマやトリックはないので、息子にも僅かながら勝つチャンスはある。場所が家の近くのいつものスーパーではないことも不安材料の一つだ。
とはいえ、余程の見落としがない限り、はっきり言って負ける気はしない。こうなれば、不本意ながら成すべきことを成すまでである。
俺は一番初めに見つけたスーパーに駐車した。ごくありきたりのチェーン店である。ここなら品揃えも普通なはず。無難に何とか収められそうだった。
さて、ゲームの内容は単純である。「五分以内に百円でできるだけの多くの商品を買うこと」。無料で配布されている物は対象外だ。同じ物を複数買うことは認められる。要するに、何を買うかに関係なく、買った品数が多い者が勝者なのだ。
店の入り口付近で、俺と息子はそれぞれ妻からエコバッグと百円硬貨を渡された。
「二人とも、頑張ってくださいね」
妻が微笑む。恐ろしい。魂胆があるのにちっともわざとらしい感じじゃなかった。心から俺と息子を平等に応援しているように見える。
総入れ歯──いや、そういえば、このゲームを持ち掛けてきたのは妻だったな。その言い分はこうだったはず。
「いつかマイサンが成長して、親の言うことを聞かないという悲劇的な事態が万が一生じたとしても、わたくしにはマイサンに厳しくすることなど到底できませんわ。陰でできる限り協力しますから、マイサンの指導を頼みましたわよ」
そして、妻のアイデアを元に、二人でこの買い物ゲームとその必勝法を煮詰めたのだった。
さあ、ゲームの開始だ。息子は買い物カゴを持って真っ先にお菓子コーナーへと行った。確かここの系列のスーパーには、駄菓子コーナーがあったはず。バラで一個一個買えたはずだ。一番安い品は何だろう。五円以下ってことはないよな。
俺は百円玉を握り締めつつ、取り敢えず店内を一周してみることにした。
値札を確認しながら歩くと、五分は結構短い。菓子コーナーに絞った息子の考えは案外的を射ている。俺の子どもの頃は、近所のお菓子屋兼文房具屋で、西洋紙一枚を一円で売っていたが、さすがに現代の普通のスーパーでそんな売り方をしているところはあるまい。一応、あちらこちらを適当に探索して、大丈夫だとの確信を得る。──それにしても、最近、西洋紙なんて言葉、とんと聞かなくなったな。コピー用紙に取って代わられてしまったか。
時間が来たので俺はレジに向かうことにした。買う物は最初から決まっている。いうなれば、このゲーム、最初から消化試合のようなものだ。会計に若干手間取ったものの、無事支払いを終えると、妻と息子が俺を待ち構えていた。
「見てよ、これ」
息子が得意満面の笑みでエコバッグを開き、俺に中身を見せた。
「『うまい棒』か」
エコバッグの中には駄菓子の「うまい棒・めんたい味」が十一本入っている。
「あなた、マイサンたら凄いんですのよ」
妻がなぜか興奮気味に息子を褒めたたえる。何が凄いのかよくわからない。
「本体価格九円のうまい棒を十一本買って九十九円」
息子が胸を張って言った。
「あれ、消費税は?」
「かからなかった」
「どうして?」
「一本ずつ別々に支払いをしたからだよ。一円以下の消費税の端数は、ほとんどの店で切り捨てにしてる。九円の商品は九円で買えるんだ」
「ということは、お前はレジを十一回も通ったのか」
「まあね」
「凄いな、お前」
「でしょう?」
妻が息子の隣で誇らしげに胸を張った。──おい、いったい誰の味方だ。
とはいえ、俺も息子の機転には正直感心していた。俺のレシートを見る限り、この店では、うまい棒をまとめてレジに持って行ったら十本しか買えない。十本分の本体価格プラス消費税で合計九十七円だ。つまり一本分を息子は足で稼いだことになる。
「大したもんだ。それは認めよう。だが、それと勝ち負けは別だぞ」
俺がそう言うと、息子は実に意外そうな顔をした。自分の勝利を確信していたのだろう。甘い。甘いぞ息子よ。お前は俺と母さんが張った罠に、最初から落ちていたのだ。己の未熟さを思い知るがいい。フハハハハハ。
内心で高笑いしながら、俺は自分のエコバッグの中身を息子に見せた。
「え!」
息子が固まる。品数を数えるまでもない。俺の勝ちだ。
「──これは……?」
「レジ袋Sサイズ。一枚二円。これが四十六枚と消費税で合計九十九円だ」
俺はレシートを見せて息子に確認させた。
レジ袋。──エコバッグを持っていない客が、購入した商品を入れるためにレジで買う袋である。エコバッグを所持していて、店の商品を何一つ買わずに、レジ袋のみを大量に購入した客は、おそらく全国に俺だけじゃなかろうか。
「まあ、お前のやり方なら消費税なしで五十枚買えるんだけどな。制限時間五分じゃレジを五十回も通れないし、元々俺は思い付きもしなかった。それでも買った品数は俺が圧倒的に多いぞ」
「認めるよ。僕の負けだ。レジを十一回も通っていながらレジ袋の存在に気付けなかったんだから、仕方がない。エコバッグを持ってるからレジ袋は不要、という先入観が強過ぎたのかな。──けど、父さんだってエコバッグは持ってたし、言い訳にはならないか。おとなしく家に帰ってうまい棒をやけ食いするよ」
息子はやけにあっさりと敗北を受け入れた。結局、ラーメンのスープと引き換えにうまい棒を十一本手に入れたわけで、息子としては悪い取り引きではなかったのだろう。
しばらく経って、また息子のリクエストでラーメン屋に行くことになった。今度は、「ラーメン・こっテリーマン」という妙ちきりんな名称の、豚骨醤油こってりラーメンを売り物にする店である。──で、今回はテーブル席に空きがなく、前と同じような感じでカウンターに並んで座ることになった。俺がチャーシューメン大盛りと餃子、妻がラーメンと餃子、息子がラーメンとご飯を口々に注文する。
「あなた、マイサンにスープを飲み干さないよう言ってくださいます?」
妻が俺に向かって小声で言ってきた。なぜ息子に直接釘を刺さない。
「おい、わかってるだろうな」
「念を押されなくてもわかってますよ。約束は守ります。丼に残ったスープは飲み干しません」
「よし。わかってるならいいんだ」
妻がほっとしたような表情を見せる。間もなくして注文の品が俺達の前に出された。
これでもかというぐらい脂の浮いたギトギトのラーメンである。
いきなり息子がレンゲでスープばかり連続で飲み始めた。
まさか、後でスープが飲めないなら今のうちに飲んでしまおうという魂胆か。
「あなた……」
妻がこっちへ顔を向ける。注意しろというのだろう。だが、息子は約束を破ってはいない。俺は首を横に振った。
数分後。息子はどんどん食べ進めていって、遂に最後の麵をすすり終わった。横目で見る限り、まだ少しスープは残っている。よし。これで妻もひと安心だ。
と思ったら、息子のやつ、ご飯を丼に投入しやがった。おじやかよ。やられた。おじやを食べるのは残ったスープを飲み干すことには当たらない。
妻が呆然として箸をポトリと床に落とす。──箸を、落とした音した。おお。ダジャレだ。
などとくだらないことを考えているうちにも、息子は黙々とおじやを食べ続けた。こうなれば、もはや約束など有名無実である。せっかく夫婦で一生懸命考えたゲームが全部無駄になってしまった。
おじやで……おじゃん。
翌日、今度は妻が我が家でラーメンを作った。見たところ、野菜と豚肉がたっぷり乗った塩ラーメンといった風情だ。
「昨日の埋め合わせに作りましたわ」
妻がそう言うのを聞いて嫌な予感が走る。
「うまい! おいしいよママン! これなら毎日だって余裕で食べられる!」
既に息子が食べながら叫んでいるが、信用は全くできない。
レンゲでスープをすくって一口飲んでみる。
「こ、これは!」
ほとんど味がなかった。鶏ガラの要素は感じられるものの、塩味が絶望的に足りない。中華麵のお湯漬けみたいなものだ。
「お好みで酢をひと回ししてくださいな」
妻はそう言ったが、酢でどうにかなるような味ではない。しかし、なぜラーメンに酢を?
あっ、もしかして……。
俺は予想が外れてほしいと願いつつ妻に訊ねた。
「これってラーメンじゃないのか?」
「ええ。湯麵 タンメン ですわよ」
そんな工夫の素晴らしさを妻に知ってもらいたくて、俺はその店を選んだ。店名は「ハンバーメン」。
──うん。店の名前はもっと工夫してほしかった。 うまそうな感じが微塵もしない。妻と息子に店の名前を告げるのをためらわせる残念さがあった。俺なら、うーん、「ヌードルバーグ」にするかな。ラーメン界のヌーベルバーグって意味で。
「どのお店に連れて行ってくれますの?」
「いやあ、ちょっと変わってるけど、おいしい店なんだ。確か君は初めてのはず。行ってみてのお楽しみだよ」
などと誤魔化しながら俺は、ラーメン屋に車を走らせた。
車を降りて店の看板を見上げた妻と息子はどことなく引いている様子だったが、外観が新しく客もそこそこ入っている雰囲気だったので、特に文句を言うこともなく店に入ってくれた。
「いらっしゃりーー!」
日本語として正しいかどうかもわからない奇妙な大声がこじんまりとした店に響き渡る。俺は脇目もふらず一直線にカウンター席の中央に座った。右側に妻が、さらにその右側に息子が腰掛ける。息子、恐るべし。今のくつろいだ状況で一瞬の迷いもなく俺の隣の席を避けるとは、まさしくマザコンの鑑と言えよう。偽装だけど。
「テーブル席が空いてますのに……」
妻が小声でクレームをつけてきた。
「いいんだ。君にここの調理風景を見せたくてね」
「変わってますの?」
「まあね」
「メニューも変わってますのね。ハンバーグラーメンとご飯と飲み物しかありませんわ。ギョーザもチャーハンもないなんて」
「調理は一人でやってるからな。手間の掛かることはできないんだろ」
「水、要るよな」
息子が水の入ったコップをお盆に乗せて運んできた。ちゃんと三人分ある。セルフサービスの水を俺の分まで持ってきてくれるとは予想外だった。店では大っぴらにマザコンアピールができないから、細かいサービスの違いで俺と妻との間に格差を作り出してくるものとばかり思っていたのである。
「あら、マイサン、家族全員の水を持ってきてくれましたのね。気が利きますわ。素敵ですわよ」
「そんな、褒められるようなことはしてないよ」
「まあ、なんて謙虚なんですの。さすがはマイサンですわ」
なるほど。こういう気に入られ方もあるわけだ。息子としては狙い通り──というわけじゃないな。かなり恥ずかしそうにしてやがる。この店、狭いから会話が周りにだだ漏れだ。なるほど。母親の機嫌は取りたいが、周囲にはマザコンと思われたくないと。この贅沢人間め。
ちなみに俺は贅肉人間である。ほっとけ。
「ええと、ハンバーメン二つと大盛一つ!」
俺は武士の情けで、妻と息子の会話を断ち切ってやった。
「バーメンツー! バーメン大ワン! うけたまわりーー!」
大将の大声が響き渡る。バーメンって、略し過ぎだろ。もはやハンバーグラーメンを想像することすらできない。
さて、肝心のハンバーグラーメンの作り方だが、あらかじめスープを仕込んでおかないだけあって、具とスープを先に作ることになる。麵を茹で始めるのは少し後だ。
まず厨房で目を引くのは、ボウルの中に山と積まれた大量のハンバーグである。ハンバーグ一個の大きさはかなり小さい。大きめの肉団子を小判型に潰したような感じのミニハンバーグだ。以前大将に聞いた情報によれば、材料は牛と豚の合挽肉とおろし生姜と香辛料と塩で、パン粉などのつなぎは入っていないらしい。そして、手の熱が伝わらないようにしつつ粘りけが出るまでよく捏ね、種を作るのだという。
で、その種をラードで炒めて半分ほど火が通ったものを開店前に作りまくって、冷蔵庫にストックしておくわけだ。ボウルに積まれたハンバーグはその一部であり、従って半焼け状態である。
大将は小さめの片手鍋に水を入れると、まず昆布三枚と出汁パック三つを投入した。この出汁パックには干し貝柱と干し桜海老を粉砕したものが入っていて、大将の手製である。昆布一枚と出汁パック一つが一人前の分量なのだろう。
ちょうどお湯が沸騰する寸前で、大将は鍋から昆布と出汁パックを引き上げ、弱火にした後、酒と塩を少量ずつ加え、ハンバーグを十二個投入した。なぜ個数がわかるのかというと、以前一人で食べに来た時に四個入れていたからである。
「ハンバーグを煮込んで出汁を取るんですのね。ラーメンの上に乗せるだけと思ってましたわ。でも、肉から取った出汁って、丁寧にアクを取り除いたとしても、骨に比べて味が落ちるっていうか、雑味が多過ぎるような印象があるんですけど?」
妻がもっともな疑問を口にした。
「勿論、雑味はあると思う。けど気にならない。最初の昆布やらパックの出汁やらが、意味を持ってくるんだろうな。そいつがハンバーグの雑味と合わさって、力強い複雑なうま味を醸し出してるような気がする」
「そういうことならぜひ味わってみたいものですわね」
「僕も早く食べたいな」
すかさず息子が妻に同調する。誰に聞かれても恥ずかしくない台詞で見事に母親に追従していた。もはやプロだ。マザコンマスターである。
大将が別の十二個のハンバーグを今度は中華鍋で炒め始めた。再加熱してしっかりと火を通すのだ。そしてここからが正念場である。まず、三玉半の麵を大鍋で一度に茹で始めた。中太麵なので茹で上がりまでは、しばらく時間がかかる。その間にハンバーグの入った中華鍋にざく切りのキャベツと塩抜きしたメンマを加えて炒め、塩コショウを振った後、少量のゴマ油と薄口醤油で風味付けをしていく。
次いで大将は、あらかじめ温めてあった丼に大さじ二杯の醤油とたっぷりのラードとほんの少しの砂糖を入れ、上から出来立てのスープを注いでよくかき混ぜた。出汁取りに使ったハンバーグもそのまま具の一部として使われる。──お、どうやら、麵も茹で上がったようだ。鍋の中の麵を、大将が平ザルで一人前ずつ掬って手際よく湯切りし、丼に移していく。中華鍋の中の具を麵の上に並べ、小口切りのネギを適量乗せて完成である。後は好みで卓上の黒コショウやおろしニンニクを入れるのもいいだろう。
「はい、ハンメン大とハンメンお待たしーー!」
大将が俺達の前に勢い良く丼を置いていく。──おい、さっきと略称が違うぞ。半分しか麵が入ってないみたいで何となく嫌だ。
「結構ボリュームがありますのね。ハンバーグもたくさん乗ってますし……」
「八つだ。スープで煮込んだのが四つと炒めたのが四つ。チャーシューの代わりだな」
それ以外の見た目に特筆すべき点はなかった。キャベツ炒めの乗った、やや脂の多い濃いめの醤油ラーメンに過ぎない。
妻は両手を合わせて「いただきます」と言った後、まずレンゲでスープを一口掬って飲んだ。
「あら、おいしいですわね、これ。醤油の味はしっかり出てるのに、そんなにしょっぱく感じませんわ。出汁のうま味と挽肉の味とキャベツの甘みが、単純な醤油と脂の味をまろやかに風味豊かに引き立てているみたいですわね」
「気に入ってもらえてよかったよ」
俺はほっと一息ついた。この間のダイエット狂詩曲で無駄に舌が肥えてしまった妻を満足させられるかどうか、少し不安だったのだ。一方、息子については何の心配もしていない。こいつほど味の許容範囲の広い人間を俺は知らなかった。さっそく猛然たる勢いで麵をすすりまくっている。
「どうだ? うまいか?」
一応息子に水を向けてやると、
「ああ、最高だ。こんなおいしいラーメン初めて食べたよ」
と、感激した様子を見せた。
だが、こいつは何を食べても同じようなことを言うのである。決して感想を鵜呑みにしてはならない。何しろ息子は、卵かけご飯に醤油と間違って黒酢をかけ、なおかつそれに違和感を覚えないまま、うまいうまいと最後まで食べきった男である。去年受けた味覚検査で「正常」と診断されたのが不思議なレベルだった。本人に言わせると、味がわからないのではなくて、料理全体のうまさを味わうのに夢中になり過ぎて、今どの味覚が刺激されているかというところまで意識が回らないんだそうだ。──うん、嘘っぽい。
ま、とにもかくにも、このハンバーグラーメンはうまかった。今度から妻にはこれを作ってもらいたい。そのためにわざわざ厨房の見えるカウンターに座ったのだ。店では調理時間短縮のため下調理済みのハンバーグを使用しているが、おそらく挽肉を練るところから始めても、調理時間は一家三人で三十分とかからないはずである。
それで、調理手順を見て覚えられたかどうか、妻に尋ねようとして俺は異変に気付いた。
妻と息子が小声で言い争っている。珍しい。というか、家の中では全く見かけなくなった光景である。息子がマザコン言葉を使わず、まともに母親に言い返しているの見るのは何年ぶりのことか。何事かと思って息をひそめて聞いてみると、実につまらないことで諍いをしていた。
「マイサン、繰り返しますけどスープを全部飲むのはやめるべきですわ。大量の塩分と脂を一度に摂取するのは、身体に良くありません」
「お母さん、僕はまだ若いから、ラーメン一杯分の塩や脂ぐらいで、どうにかなったりはしませんよ」
うん、そうだそうだ。息子に一理あり。
「──だいたい、僕のことを言う前にお父さんを見てくださいよ。ただでさえ不健康そうな体型なのに、大盛りを完食してるじゃないですか」
おい、いちいち俺のことは言うな。
「お父さんはいいんですのよ」
妻が即座に言い切った。さすがは我が妻。話のわかるいい女だ。
「──もう、充分に生きましたから。マイサンの人生はこれからじゃないですか」
前言撤回。何だよ。俺はまだ若いし、当分生きるつもりなんだが。生きちゃ駄目なのか。
「ラーメンの命はスープなんですよ。それを飲まないのは、丹精込めて作ってくれた人に対して失礼じゃないですか。少なくとも店の人は、一滴残らず飲み干してほしいと思ってますよ」
「十分で作れるスープにそんな価値があるとも思えませんわ」
あちゃ。スープの仕込みの手軽さが、こんなところで裏目に出たか。
話がうまくまとまりそうにないので、俺は強引に打ち切らせることにした。
「ども、ごちそうさん」
伝票を持っておもむろに立ち上がる。
「ありがとやしーー!」
大将の大声が響き渡った。この変な語尾はわざとやっているのか? レジに向かうと妻と息子が慌てたように後を追い掛けてきた。
「あなた、急に自分一人で帰らないでくださいな」
「揉めてたみたいだったから、君の肩を持ってあげたんだよ。ほら、こいつのラーメンのスープの完飲を阻止できただろ」
「それもそうですわね」
「お父さん、僕の気持ちは考えてくれないんですか?」
息子にこんな口調で問い詰められるとどうも調子が狂う。妻はこのモードの息子をどう受け止めているんだろうか。
「レジの前で話すことじゃなかろ。先に出てな。なんか考えとく。お前ばかりに損を押し付けはしない」
そう小声で息子に言ってから、大将に伝票を渡した。息子は納得したようだ。
「ハンバー大一丁とハンバー二丁ね。二千三百円でしーー!」
また略称が変わった。もはや麵ですらない。代金を渡すと大将は何度もお辞儀をし、最後に、
「またのお越しをお待ちしております!」
と普通に言って俺を見送ってくれた。言えるのかよ。
さて、店から出て駐車場の方に行くと、車の脇で妻と息子が和やかなムードで会話していた。
「ごめんよ、ママン。スープが最高においしかったんで、どうしても全部飲みたかったんだ。でも、ママンが僕のことを気遣って忠告してくれてたのは理解してる。僕が浅はかだったよ」
「いいんですのよ。ママンはマイサンが自分の意見をはっきりと言えるのを知って、とっても嬉しく思いましたわ。随分と成長しましたわね」
「ありがとう、ママン、大好きだよ」
「ママンもですわ」
いつものことなのだが、俺を妙に苛つかせる会話である。遠慮なく割って入るとしよう。
「お待たせ。さ、帰るか」
「あら、早かったですわね」
「普通だよ」
「僕への埋め合わせは考えてくれた?」
「まあな。車の中で話すよ」
それにしても……。
なるほど。妻は自分に楯突く息子に、精神的成長を実感して喜んでいたのか。息子もそういう雰囲気を察して、敢えて食い下がったのかも。常にマザコン丸出しで従順なふうを装うのは、相当ストレスの溜まる仕事だと思う。たまには本音をぶちまけるのも息抜きになっていいかもしれない。
俺は車を運転しながら、後席の息子にこう言った。
「さっきの件だがな、俺とゲームをしよう」
「は?」
怪訝そうな声が聞こえる。
「ゲームで俺に勝てたら、俺は未来永劫お前がラーメンのスープを飲み干すことに反対しない。母さんもだ。お前が負けたら、今後スープは諦めろ。──そんなんでどうだ?」
おお、という嬉しそうなニュアンスを含んだ声が車内に響く。
「面白そうだね、それ。──けど、ママンは納得してくれるの?」
「いいですわよ。お父さんに勝てたら、好きにして構いませんわ。マイサンの健康は心配ですけど、ママンが他のところで挽回してみせます」
おいおい、どこで挽回する気だ? 摂り過ぎてしまった塩分と脂──帳尻を合わせるためには……まさか、あれか?
俺は妻の作る激薄味のダイエット食を思い浮かべた。恐ろしい。あれをうまいと褒めたたえながら食べなきゃならなくなるのか。とてつもなく嫌である。是が非でも御免被りたい。
これで俺は、是が非でも勝たなくてはならなくなった。負けても俺には何の損もないと見越して、気楽にゲームを持ち掛けたのに。ああ、何ということだ。
「じゃあ、何で勝負しようか?」
俺の気も知らずに息子がやる気満々で訊ねてくる。
「公平を期すために母さんに決めてもらおう。母さん、何か面白いゲームはないか?」
「そうですわね……」
妻が助手席で考え込む仕草を見せる。
「食品スーパーに寄ってくださいな」
「え?」
俺は驚きを禁じ得なかった。まさか妻よ、取って置きのあのゲームを今やるのか?
「買い物ゲームをします」
そのまさかだった。将来、息子が反抗期に入った時に、円満に親の言うことを聞いてもらうために夫婦で練り上げた必勝ゲーム。勝負事が好きな息子の心理を巧みに利用した秘策だ。そいつをたかがラーメンのスープのために使うなんて。
「初めてのゲームだね。楽しそうだ」
何も知らない息子が言った。すまんな。もう俺にも止められない。敢えて反対する合理的な理屈が見つからないのでな。
まあ、今度のゲームにイカサマやトリックはないので、息子にも僅かながら勝つチャンスはある。場所が家の近くのいつものスーパーではないことも不安材料の一つだ。
とはいえ、余程の見落としがない限り、はっきり言って負ける気はしない。こうなれば、不本意ながら成すべきことを成すまでである。
俺は一番初めに見つけたスーパーに駐車した。ごくありきたりのチェーン店である。ここなら品揃えも普通なはず。無難に何とか収められそうだった。
さて、ゲームの内容は単純である。「五分以内に百円でできるだけの多くの商品を買うこと」。無料で配布されている物は対象外だ。同じ物を複数買うことは認められる。要するに、何を買うかに関係なく、買った品数が多い者が勝者なのだ。
店の入り口付近で、俺と息子はそれぞれ妻からエコバッグと百円硬貨を渡された。
「二人とも、頑張ってくださいね」
妻が微笑む。恐ろしい。魂胆があるのにちっともわざとらしい感じじゃなかった。心から俺と息子を平等に応援しているように見える。
総入れ歯──いや、そういえば、このゲームを持ち掛けてきたのは妻だったな。その言い分はこうだったはず。
「いつかマイサンが成長して、親の言うことを聞かないという悲劇的な事態が万が一生じたとしても、わたくしにはマイサンに厳しくすることなど到底できませんわ。陰でできる限り協力しますから、マイサンの指導を頼みましたわよ」
そして、妻のアイデアを元に、二人でこの買い物ゲームとその必勝法を煮詰めたのだった。
さあ、ゲームの開始だ。息子は買い物カゴを持って真っ先にお菓子コーナーへと行った。確かここの系列のスーパーには、駄菓子コーナーがあったはず。バラで一個一個買えたはずだ。一番安い品は何だろう。五円以下ってことはないよな。
俺は百円玉を握り締めつつ、取り敢えず店内を一周してみることにした。
値札を確認しながら歩くと、五分は結構短い。菓子コーナーに絞った息子の考えは案外的を射ている。俺の子どもの頃は、近所のお菓子屋兼文房具屋で、西洋紙一枚を一円で売っていたが、さすがに現代の普通のスーパーでそんな売り方をしているところはあるまい。一応、あちらこちらを適当に探索して、大丈夫だとの確信を得る。──それにしても、最近、西洋紙なんて言葉、とんと聞かなくなったな。コピー用紙に取って代わられてしまったか。
時間が来たので俺はレジに向かうことにした。買う物は最初から決まっている。いうなれば、このゲーム、最初から消化試合のようなものだ。会計に若干手間取ったものの、無事支払いを終えると、妻と息子が俺を待ち構えていた。
「見てよ、これ」
息子が得意満面の笑みでエコバッグを開き、俺に中身を見せた。
「『うまい棒』か」
エコバッグの中には駄菓子の「うまい棒・めんたい味」が十一本入っている。
「あなた、マイサンたら凄いんですのよ」
妻がなぜか興奮気味に息子を褒めたたえる。何が凄いのかよくわからない。
「本体価格九円のうまい棒を十一本買って九十九円」
息子が胸を張って言った。
「あれ、消費税は?」
「かからなかった」
「どうして?」
「一本ずつ別々に支払いをしたからだよ。一円以下の消費税の端数は、ほとんどの店で切り捨てにしてる。九円の商品は九円で買えるんだ」
「ということは、お前はレジを十一回も通ったのか」
「まあね」
「凄いな、お前」
「でしょう?」
妻が息子の隣で誇らしげに胸を張った。──おい、いったい誰の味方だ。
とはいえ、俺も息子の機転には正直感心していた。俺のレシートを見る限り、この店では、うまい棒をまとめてレジに持って行ったら十本しか買えない。十本分の本体価格プラス消費税で合計九十七円だ。つまり一本分を息子は足で稼いだことになる。
「大したもんだ。それは認めよう。だが、それと勝ち負けは別だぞ」
俺がそう言うと、息子は実に意外そうな顔をした。自分の勝利を確信していたのだろう。甘い。甘いぞ息子よ。お前は俺と母さんが張った罠に、最初から落ちていたのだ。己の未熟さを思い知るがいい。フハハハハハ。
内心で高笑いしながら、俺は自分のエコバッグの中身を息子に見せた。
「え!」
息子が固まる。品数を数えるまでもない。俺の勝ちだ。
「──これは……?」
「レジ袋Sサイズ。一枚二円。これが四十六枚と消費税で合計九十九円だ」
俺はレシートを見せて息子に確認させた。
レジ袋。──エコバッグを持っていない客が、購入した商品を入れるためにレジで買う袋である。エコバッグを所持していて、店の商品を何一つ買わずに、レジ袋のみを大量に購入した客は、おそらく全国に俺だけじゃなかろうか。
「まあ、お前のやり方なら消費税なしで五十枚買えるんだけどな。制限時間五分じゃレジを五十回も通れないし、元々俺は思い付きもしなかった。それでも買った品数は俺が圧倒的に多いぞ」
「認めるよ。僕の負けだ。レジを十一回も通っていながらレジ袋の存在に気付けなかったんだから、仕方がない。エコバッグを持ってるからレジ袋は不要、という先入観が強過ぎたのかな。──けど、父さんだってエコバッグは持ってたし、言い訳にはならないか。おとなしく家に帰ってうまい棒をやけ食いするよ」
息子はやけにあっさりと敗北を受け入れた。結局、ラーメンのスープと引き換えにうまい棒を十一本手に入れたわけで、息子としては悪い取り引きではなかったのだろう。
しばらく経って、また息子のリクエストでラーメン屋に行くことになった。今度は、「ラーメン・こっテリーマン」という妙ちきりんな名称の、豚骨醤油こってりラーメンを売り物にする店である。──で、今回はテーブル席に空きがなく、前と同じような感じでカウンターに並んで座ることになった。俺がチャーシューメン大盛りと餃子、妻がラーメンと餃子、息子がラーメンとご飯を口々に注文する。
「あなた、マイサンにスープを飲み干さないよう言ってくださいます?」
妻が俺に向かって小声で言ってきた。なぜ息子に直接釘を刺さない。
「おい、わかってるだろうな」
「念を押されなくてもわかってますよ。約束は守ります。丼に残ったスープは飲み干しません」
「よし。わかってるならいいんだ」
妻がほっとしたような表情を見せる。間もなくして注文の品が俺達の前に出された。
これでもかというぐらい脂の浮いたギトギトのラーメンである。
いきなり息子がレンゲでスープばかり連続で飲み始めた。
まさか、後でスープが飲めないなら今のうちに飲んでしまおうという魂胆か。
「あなた……」
妻がこっちへ顔を向ける。注意しろというのだろう。だが、息子は約束を破ってはいない。俺は首を横に振った。
数分後。息子はどんどん食べ進めていって、遂に最後の麵をすすり終わった。横目で見る限り、まだ少しスープは残っている。よし。これで妻もひと安心だ。
と思ったら、息子のやつ、ご飯を丼に投入しやがった。おじやかよ。やられた。おじやを食べるのは残ったスープを飲み干すことには当たらない。
妻が呆然として箸をポトリと床に落とす。──箸を、落とした音した。おお。ダジャレだ。
などとくだらないことを考えているうちにも、息子は黙々とおじやを食べ続けた。こうなれば、もはや約束など有名無実である。せっかく夫婦で一生懸命考えたゲームが全部無駄になってしまった。
おじやで……おじゃん。
翌日、今度は妻が我が家でラーメンを作った。見たところ、野菜と豚肉がたっぷり乗った塩ラーメンといった風情だ。
「昨日の埋め合わせに作りましたわ」
妻がそう言うのを聞いて嫌な予感が走る。
「うまい! おいしいよママン! これなら毎日だって余裕で食べられる!」
既に息子が食べながら叫んでいるが、信用は全くできない。
レンゲでスープをすくって一口飲んでみる。
「こ、これは!」
ほとんど味がなかった。鶏ガラの要素は感じられるものの、塩味が絶望的に足りない。中華麵のお湯漬けみたいなものだ。
「お好みで酢をひと回ししてくださいな」
妻はそう言ったが、酢でどうにかなるような味ではない。しかし、なぜラーメンに酢を?
あっ、もしかして……。
俺は予想が外れてほしいと願いつつ妻に訊ねた。
「これってラーメンじゃないのか?」
「ええ。湯麵 タンメン ですわよ」
- 関連記事
-
-
挑戦隊チャレンジャー・完全版 第一話 「襲来! コーヒー党」 その1 (小説) 2019/02/03
-
夏の路地裏 (俳句) 2018/08/14
-
ラーメン狂騒曲 (ショート・ストーリー) 2018/05/26
-
初秋の蚊 (短歌) 2017/09/26
-
梅雨 と 梅酒 (短歌) 2017/07/10
-