幻三郎旅日記 第二話 「決闘! 二十四 対 一」 その1 (小説)
弥陀ヶ原幻三郎の行く所、必ず闘いの風が吹き荒れる。
長年の兵法修行の過程で、あまたの武芸者の命を奪ってきた幻三郎には、彼を仇として付け狙う大勢の敵がいた。
彼の剣名を伝え聞いて、腕試しにやってくる命知らずも後を絶たない。それゆえ彼は、全国どこにいようと、闘いを挑んでくる相手には不自由しなかった。
時は元和四年(西暦一六一八年)、夏。大坂夏の陣において豊臣家が滅亡してから、三年が過ぎている。江戸幕府の統治の下、日本に長い泰平の時代が訪れつつあった。
それでもなお、幻三郎の周囲では、常に戦国の時代の血生臭い風が、相も変わらず吹き続けているのである。
投稿者:クロノイチ
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長年の兵法修行の過程で、あまたの武芸者の命を奪ってきた幻三郎には、彼を仇として付け狙う大勢の敵がいた。
彼の剣名を伝え聞いて、腕試しにやってくる命知らずも後を絶たない。それゆえ彼は、全国どこにいようと、闘いを挑んでくる相手には不自由しなかった。
時は元和四年(西暦一六一八年)、夏。大坂夏の陣において豊臣家が滅亡してから、三年が過ぎている。江戸幕府の統治の下、日本に長い泰平の時代が訪れつつあった。
それでもなお、幻三郎の周囲では、常に戦国の時代の血生臭い風が、相も変わらず吹き続けているのである。
投稿者:クロノイチ



岬護幽一郎を倒し、衛士の村へ向かう弥陀ヶ原幻三郎は、思わぬ邪魔者に付きまとわれていた。それは、正真正銘の風。彼の後ろより吹き過ぎては、すぐまた正面から吹きつけてくる奇妙な風だ。
幻三郎はその正体を知っている。神になろうとした男のなれの果てである。単なる風鳴りが彼の耳にはなぜか声として響く。いささかなれなれしい感じのする声だった。
「いい加減にしろ!」
誰もいない道で、幻三郎は憤然として怒鳴った。先刻の闘いで「奥の手」を使わされてしまったことを、今だに引きずっているらしい。「奥の手」 を出すことは、彼にとって大いなる屈辱であり、過去の心の傷口をこじ開ける行為なのだろう。そして、全ての元凶が自分にまとわりついているのである。虫の居所がよかろうはずもなかった。
〔まあまあ、そうカリカリしなさんな〕
ヒューヒューという風音の中から、幻三郎はそんな能天気な声を聞いた。
「黙れ!」
〔黙れ、ったって俺に口はないよ〕
「俺の頭の中に語り掛けるな、岬護幽一郎!」
〔だから岬護幽一郎は死んだって。俺は自由な風さ。風に名前は要らんよ〕
幻三郎は、けっ、と吐き捨てるような声を発した。
「何が風だ。出来の悪い幽霊ではないか」
〔おいおい。幽霊なんかと一緒にするなよ。あれは死んだ瞬間の意識が、死の際に放出された生命の気に固着したもんだ。言わば精神の残骸。生前の心と記憶をそのまま受け継いだ俺とは、格が違う〕
「生前の心のままだと?だいぶ崩れているぞ」
憎悪と皮肉が入り雑じった口調である。
〔ちょっとした心境の変化さ。無理やり背負わされていた重い荷物が、なくなっちまったんでね。身体が軽いと心も軽い〕
「浮かれるな!」
〔まあまあ。落ち着けよ〕
「お前がどこかへ行ってくれたらな」
風はいやいやをするように、幻三郎の周りでくるくると渦巻いた。
〔身体が拡散するのを防ぐのに、かなり力を消耗するんだ。あんたの発散する尖った剣気がそれを補ってくれる。―― 悪いがずっとそばにいさせてもらうぞ。よろしくな〕
とても 『自由な風』 が吐いたとは思われぬ言葉である。
「やめろ!俺は貴公自身の仇だぞ!」
〔確かに岬護幽一郎にとっては、あんたは『敵』であり『仇』だがね。今の俺にはどうでもいいことなのさ〕
「悪霊め!」
怒りが極限に達した幻三郎ではあったが、何しろ相手は風。最強無敵の剣の遣い手といえども罵るのが関の山だった。
〔悪霊とは心外だな。姿を失い神通力もないけど、かなり神に近い存在にはなれた〕
風音がムッとしたような低い音に変わる。しかし、どこかしら残念そうな響きも混じっていた。死の寸前の自分を省みて悔やんでいるのだろう。最期の時、岬護幽一郎は、神への転生を決意していながら、最後の瞬間、勝利を捨てきれぬ必死の剣を放っていた。一瞬の邪念。それが神への道を閉ざしたのである。
「けっ!」
再び吐き捨てるような声を発して、幻三郎は駆け出す。一刻も早く風の入らぬ場所へ。それが彼のせめてもの抵抗なのだろう。
それから半刻。衛士の村に着いた幻三郎は、霧ヶ谷一風斎の屋敷へと直行した。先刻の座敷へ入り、一風斎と向き合う。風はついてきていない。縁の下の方でごそごそやっているようだ。
「人払いは済んでおる。首尾は?」
慌ただしく一風斎が尋ねてきた。今度は茶も出ない。
「斬った」
幻三郎がぶっきらほうに言う。
「おお。よくやってくれた」
緊張していた一風斎の表情が一気にほころんだ。
「して、亡骸は?」
「沼のほとりだ。首は沼の底に沈んでいる」
「そうか」
「報酬をもらおう」
唐突に幻三郎が用件を切り出した。地鳴りのように低い、機嫌の悪そうな声だ。顔を他人に見せない彼は、時折、感情を表すのに適した声質をわざわざ作る。
「ん?」
「約束を果たせ」
「……」
鋭く強い口調に押され、一風斎の顔から笑みが消えた。
「―― わかった。天ヶ原へ行け」
「天ヶ原?」
「村を突き抜けて隠し道を真っ直ぐ進めば、小さな草原に行き当たる」
「そこか。そこに衛士がいるのか?」
「うむ。今時分からしばらくは各々、そこで鍛練に励んでおる」
「人数は?」
「『天敵』 の捜索に出た者を差し引いて、まあ、二十数人といったところか」
幻三郎は小さく頷くと、身を乗り出して、一風斎の方へにじり寄った。
「要するに天ヶ原に行って、『天敵』だと名乗り、岬護幽一郎を倒したと宣言すればいいのだな。さすれば、大勢の衛士と闘えるわけだ。貴公としても、事情を知り過ぎた俺を体裁よく消せる」
「読まれておったか。さすがじゃ」
そう感心したように言ってから、一風斎ははたと首をひねった。
「―― はて。そなた、よもや本物の『天敵』ではあるまいな。そなたは衛士のことを前もって知っていた。『敵』 らしき人物に会ったという話―― それが狂言だとすれば……」
「無駄なことは考えるな。結論は同じだ」
「そうじゃな。そなたを殺さねばならぬことに変わりはない」
一風斎は納得した顔で立ち上がった。
「行くぞ。隠し道まで案内する」
「ああ」
幻三郎は一風斎が背中を向けるのを待ってゆっくりと腰を上げた。深編笠の下から顔を覗かれぬよう用心してのことらしい。
屋敷を出ると、風がカサコソと松毬まつかさを転がしながら吹き寄せてきた。
「妙な気配がするが、気のせいか?」
一風斎が勘の鋭いところを見せる。
「…………」
無言で幻三郎は松毬を踏み潰した。
畦道を伝い歩いた末に二人が辿り着いたところは、洞穴の前である。入口は人が立ったまま入るに充分な広さだが、奥行きは二間程度しかない。
「ここを行け」
「何?」
「行き止まりと見えるは騙し絵じゃ。どんでん返しになっておる」
「隠し道とはそういうことか」
「洞窟を抜ければ天ヶ原までは一本道じゃ」
「わかった」
「では、わしは村に戻る。そなたの最期を見届ける必要はなかろう」
一風斎は何の心配もしていないようだった。
「えらく衛士を信頼しているのだな」
「二十数人掛かりで、信頼も何もあるまい」
「甘いな」
「せいぜい奮闘するがいい」
薄ら笑いを浮かべつつ、一風斎は踵を返した。老人に似合わぬ軽やかな足取りで去っていく。すると、それまで鳴りをひそめていた風が、幻三郎の方へ擦り寄ってきた。
〔やっと行ったな〕
「またお前か」
幻三郎はあからさまに嫌そうな声を発した。
〔そう邪険にするなよ。―― それにしても驚いた。俺を斬った報酬が、衛士との闘いとはな〕
「聞いていたのか」
そう言いながら、どんでん返しの扉を押す。向こう側に真っ暗な空間が続いていた。石畳が敷き詰められた緩やかな上り坂である。
〔さすがは伝説の 『天敵』 だな〕
「『天敵』 など知らん、と何度言えばわかるのだ!」
たちまち幻三郎の声に怒りが宿った。
〔しかし、やっていることはまさしく『天敵』。岬護家の当主を殺し、次いで衛士の殲滅を図る……〕
「成り行き上、たまたまそうなっただけだ」
〔ま、無理に認めろとは言わんがな〕
風は、闇の中を足早に進む幻三郎に並んで、静かに流れた。
〔―― ただ、今の俺にはあんたが必要だ。衛士ごときに殺されてもらっては困る〕
「馬鹿な。俺が負けるわけがない」
〔化け物の―― あんた本来の力を使えばな。だが、あんたは自らそれを封じ込んでしまっている。衛士の集団戦法を相手にするのは、ちときついぞ〕
「そうは思わぬ」
衛士の戦闘力を知らない幻三郎は平然と言ってのけた。
〔なぜ、あの腕を使わん? 人形の如き衛士にすら、化け物と知られるのが怖いのか?〕
「違う!」
幻三郎が即座に反駁した。張り上げた大声が洞窟の中で何重にも跳ね返り、うねるような響きを醸し出す。
「『奥の手』 を使わぬのは、それに頼らぬと決めたからだ」
〔それだけか? あの腕を出してからの、あんたの取り乱しようは……〕
「うるさい!」
袖をバッと翻して幻三郎は風を払った。
「生まれながらの怪物性に依りかかった無敵など、誇るに値せん。ゆえに 『奥の手』 を封印したのだ」
〔それで人間と対等になったと思っているのか?〕
冷やかな風が幻三郎の首筋を撫でる。
「何ぃ」
〔あの腕は確かに異形で突出した能力を持っている。けどな、そいつがなくたって、化け物であることに何ら変わりはないんだ。修練で強くなったとあんたは言ったが、それ以前に元々の土台が常人とはまるで違う。あんたは言わば角のない鬼。人間と張り合っちゃ、人間がかわいそうだ〕
「決めつけるな!」
敵意に満ちた禍々しい気を全身から発散しつつ、幻三郎は左拳を握りしめた。
「人として生きてこそ強さが意味を持つのだ。人を超えた存在として己を認めたが最後、俺は、劣弱な動物を玩び切り刻む、ただの殺戮者と化してしまう」
〔ふむ。やっぱりあんたはそういう男だったのか。何となく過去が見えるぞ〕
「ほざくな! 簡単に人間を捨てられる奴に、俺の何がわかる?」
〔わかるさ。あんたはわかりやすいんだ。真正直だからな〕
「おのれ!」
幻三郎は握った拳をがむしゃらに振り回したが、虚しく空を打つばかりだった。
〔おっとと。そう怒るなよ。冷静さがないと、衛士の攻撃はかわせんぞ〕
「お前が怒らせたのだろうが!」
〔悪い悪い。あんたには衛士に勝ってもらわなきゃならないんだった〕
「お前に心配されるには及ばん」
〔いいや、心配だ。あの腕を使えとはもう言わん。ただ、闘いの最中、そいつを抑え込み続けるのはやめた方がいい」
「何?」
〔あの腕が無意識に動くのを封じるための、余分な筋肉の緊張が、あんたの右手から力を奪っている。しかも、それに注意を払う以上、集中力の分散も避けられん。一度、あの腕のことは忘れてみたらどうだい? ちょっと動くぐらい別にいいじゃないか〕
「忠告は無用だ。俺は俺のやり方で勝つ」
幻三郎は不快感を剥き出しにして言った。
〔やれやれ。そこまで頑固とは思わなかった。なら、好きにしろ。不本意だけど、今のあんたに全てを預ける。――だが、衛士に勝ったところで、今のままだぞ〕
何が 「今のまま」 なのか、風は明らかにしない。
「そうは思わん。制約の中での厳しい闘いが俺を鍛えてくれる」
〔どうかな。信じるのは勝手だが、現実は甘くない。この先ずっとこんな調子かと思うと、もどかしくてたまらんね〕
聞こえるか聞こえないかぐらいの、独り言めかした微かな風音である。幻三郎は無言だったが、次第に荒々しい足取りになっていった。少し身体を捩じった妙な前傾姿勢で、大きな足音を立てて進む。
〔確かに、今できることを精一杯やるのも大切だ。けど、時には、今までできなかったことに挑む方がずっと大事な場合もある〕
風は幻三郎を宥めるように、ほんわりとした空気の淀みと化して深編笠を優しく包み込んだ。
「何が言いたい!」
〔俺には弟が二人いてね。一人は俺と双子の弟で、もう一人は三歳下だ〕
突然、風が話題を変える。
〔―― 末の弟は、化け物の腕を使わんあんたよりも、はっきり言って強いぞ〕
「何だと!」
〔強さの秘密は心技体の状態にある。技と体はあんたと互角で、残るは心〕
「俺の精神力が劣るというのか!」
〔違う。―― その辺は衛士と闘いの後で教えてやる〕
「なぜ、今言わん」
〔俺の言葉に耳を貸してもらうには、それなりのお膳立てが必要なようだからな。――聞きたいのなら、頼むから衛士に勝ってくれよ〕
風は懇願とも要求ともつかない言い方をした。
「俺を見くびるな!」
〔正当に評価しているつもりだがね。―― さあ、出口も近い。しばらく離れてるから、気を静めていけ〕
「偉そうに言うな!」
〔じゃあ、ずっとついててやろうか〕
「あっちへ行ってろ!」
感情に任せて幻三郎が叫ぶと、風は深編笠の脇をするりと抜けて背後に回った。
「―― 待て」
去り行く風を、ふと思い出したように呼び止める。
〔何だ?〕
「末の弟の名は……?」
風は深編笠の周りをゆっくりと回った。
〔俺が幽一郎だったんだ。三男坊の名前は想像がつかないか?]
「俺の名を 『懐かしい響き』 と言ったな」
「そう。あんたと同じ名前だよ。げんざぶろう。岬護幻三郎だ〕
言い残して風は、暗闇の中に気配を散らしていった。
続く
幻三郎はその正体を知っている。神になろうとした男のなれの果てである。単なる風鳴りが彼の耳にはなぜか声として響く。いささかなれなれしい感じのする声だった。
「いい加減にしろ!」
誰もいない道で、幻三郎は憤然として怒鳴った。先刻の闘いで「奥の手」を使わされてしまったことを、今だに引きずっているらしい。「奥の手」 を出すことは、彼にとって大いなる屈辱であり、過去の心の傷口をこじ開ける行為なのだろう。そして、全ての元凶が自分にまとわりついているのである。虫の居所がよかろうはずもなかった。
〔まあまあ、そうカリカリしなさんな〕
ヒューヒューという風音の中から、幻三郎はそんな能天気な声を聞いた。
「黙れ!」
〔黙れ、ったって俺に口はないよ〕
「俺の頭の中に語り掛けるな、岬護幽一郎!」
〔だから岬護幽一郎は死んだって。俺は自由な風さ。風に名前は要らんよ〕
幻三郎は、けっ、と吐き捨てるような声を発した。
「何が風だ。出来の悪い幽霊ではないか」
〔おいおい。幽霊なんかと一緒にするなよ。あれは死んだ瞬間の意識が、死の際に放出された生命の気に固着したもんだ。言わば精神の残骸。生前の心と記憶をそのまま受け継いだ俺とは、格が違う〕
「生前の心のままだと?だいぶ崩れているぞ」
憎悪と皮肉が入り雑じった口調である。
〔ちょっとした心境の変化さ。無理やり背負わされていた重い荷物が、なくなっちまったんでね。身体が軽いと心も軽い〕
「浮かれるな!」
〔まあまあ。落ち着けよ〕
「お前がどこかへ行ってくれたらな」
風はいやいやをするように、幻三郎の周りでくるくると渦巻いた。
〔身体が拡散するのを防ぐのに、かなり力を消耗するんだ。あんたの発散する尖った剣気がそれを補ってくれる。―― 悪いがずっとそばにいさせてもらうぞ。よろしくな〕
とても 『自由な風』 が吐いたとは思われぬ言葉である。
「やめろ!俺は貴公自身の仇だぞ!」
〔確かに岬護幽一郎にとっては、あんたは『敵』であり『仇』だがね。今の俺にはどうでもいいことなのさ〕
「悪霊め!」
怒りが極限に達した幻三郎ではあったが、何しろ相手は風。最強無敵の剣の遣い手といえども罵るのが関の山だった。
〔悪霊とは心外だな。姿を失い神通力もないけど、かなり神に近い存在にはなれた〕
風音がムッとしたような低い音に変わる。しかし、どこかしら残念そうな響きも混じっていた。死の寸前の自分を省みて悔やんでいるのだろう。最期の時、岬護幽一郎は、神への転生を決意していながら、最後の瞬間、勝利を捨てきれぬ必死の剣を放っていた。一瞬の邪念。それが神への道を閉ざしたのである。
「けっ!」
再び吐き捨てるような声を発して、幻三郎は駆け出す。一刻も早く風の入らぬ場所へ。それが彼のせめてもの抵抗なのだろう。
それから半刻。衛士の村に着いた幻三郎は、霧ヶ谷一風斎の屋敷へと直行した。先刻の座敷へ入り、一風斎と向き合う。風はついてきていない。縁の下の方でごそごそやっているようだ。
「人払いは済んでおる。首尾は?」
慌ただしく一風斎が尋ねてきた。今度は茶も出ない。
「斬った」
幻三郎がぶっきらほうに言う。
「おお。よくやってくれた」
緊張していた一風斎の表情が一気にほころんだ。
「して、亡骸は?」
「沼のほとりだ。首は沼の底に沈んでいる」
「そうか」
「報酬をもらおう」
唐突に幻三郎が用件を切り出した。地鳴りのように低い、機嫌の悪そうな声だ。顔を他人に見せない彼は、時折、感情を表すのに適した声質をわざわざ作る。
「ん?」
「約束を果たせ」
「……」
鋭く強い口調に押され、一風斎の顔から笑みが消えた。
「―― わかった。天ヶ原へ行け」
「天ヶ原?」
「村を突き抜けて隠し道を真っ直ぐ進めば、小さな草原に行き当たる」
「そこか。そこに衛士がいるのか?」
「うむ。今時分からしばらくは各々、そこで鍛練に励んでおる」
「人数は?」
「『天敵』 の捜索に出た者を差し引いて、まあ、二十数人といったところか」
幻三郎は小さく頷くと、身を乗り出して、一風斎の方へにじり寄った。
「要するに天ヶ原に行って、『天敵』だと名乗り、岬護幽一郎を倒したと宣言すればいいのだな。さすれば、大勢の衛士と闘えるわけだ。貴公としても、事情を知り過ぎた俺を体裁よく消せる」
「読まれておったか。さすがじゃ」
そう感心したように言ってから、一風斎ははたと首をひねった。
「―― はて。そなた、よもや本物の『天敵』ではあるまいな。そなたは衛士のことを前もって知っていた。『敵』 らしき人物に会ったという話―― それが狂言だとすれば……」
「無駄なことは考えるな。結論は同じだ」
「そうじゃな。そなたを殺さねばならぬことに変わりはない」
一風斎は納得した顔で立ち上がった。
「行くぞ。隠し道まで案内する」
「ああ」
幻三郎は一風斎が背中を向けるのを待ってゆっくりと腰を上げた。深編笠の下から顔を覗かれぬよう用心してのことらしい。
屋敷を出ると、風がカサコソと松毬まつかさを転がしながら吹き寄せてきた。
「妙な気配がするが、気のせいか?」
一風斎が勘の鋭いところを見せる。
「…………」
無言で幻三郎は松毬を踏み潰した。
畦道を伝い歩いた末に二人が辿り着いたところは、洞穴の前である。入口は人が立ったまま入るに充分な広さだが、奥行きは二間程度しかない。
「ここを行け」
「何?」
「行き止まりと見えるは騙し絵じゃ。どんでん返しになっておる」
「隠し道とはそういうことか」
「洞窟を抜ければ天ヶ原までは一本道じゃ」
「わかった」
「では、わしは村に戻る。そなたの最期を見届ける必要はなかろう」
一風斎は何の心配もしていないようだった。
「えらく衛士を信頼しているのだな」
「二十数人掛かりで、信頼も何もあるまい」
「甘いな」
「せいぜい奮闘するがいい」
薄ら笑いを浮かべつつ、一風斎は踵を返した。老人に似合わぬ軽やかな足取りで去っていく。すると、それまで鳴りをひそめていた風が、幻三郎の方へ擦り寄ってきた。
〔やっと行ったな〕
「またお前か」
幻三郎はあからさまに嫌そうな声を発した。
〔そう邪険にするなよ。―― それにしても驚いた。俺を斬った報酬が、衛士との闘いとはな〕
「聞いていたのか」
そう言いながら、どんでん返しの扉を押す。向こう側に真っ暗な空間が続いていた。石畳が敷き詰められた緩やかな上り坂である。
〔さすがは伝説の 『天敵』 だな〕
「『天敵』 など知らん、と何度言えばわかるのだ!」
たちまち幻三郎の声に怒りが宿った。
〔しかし、やっていることはまさしく『天敵』。岬護家の当主を殺し、次いで衛士の殲滅を図る……〕
「成り行き上、たまたまそうなっただけだ」
〔ま、無理に認めろとは言わんがな〕
風は、闇の中を足早に進む幻三郎に並んで、静かに流れた。
〔―― ただ、今の俺にはあんたが必要だ。衛士ごときに殺されてもらっては困る〕
「馬鹿な。俺が負けるわけがない」
〔化け物の―― あんた本来の力を使えばな。だが、あんたは自らそれを封じ込んでしまっている。衛士の集団戦法を相手にするのは、ちときついぞ〕
「そうは思わぬ」
衛士の戦闘力を知らない幻三郎は平然と言ってのけた。
〔なぜ、あの腕を使わん? 人形の如き衛士にすら、化け物と知られるのが怖いのか?〕
「違う!」
幻三郎が即座に反駁した。張り上げた大声が洞窟の中で何重にも跳ね返り、うねるような響きを醸し出す。
「『奥の手』 を使わぬのは、それに頼らぬと決めたからだ」
〔それだけか? あの腕を出してからの、あんたの取り乱しようは……〕
「うるさい!」
袖をバッと翻して幻三郎は風を払った。
「生まれながらの怪物性に依りかかった無敵など、誇るに値せん。ゆえに 『奥の手』 を封印したのだ」
〔それで人間と対等になったと思っているのか?〕
冷やかな風が幻三郎の首筋を撫でる。
「何ぃ」
〔あの腕は確かに異形で突出した能力を持っている。けどな、そいつがなくたって、化け物であることに何ら変わりはないんだ。修練で強くなったとあんたは言ったが、それ以前に元々の土台が常人とはまるで違う。あんたは言わば角のない鬼。人間と張り合っちゃ、人間がかわいそうだ〕
「決めつけるな!」
敵意に満ちた禍々しい気を全身から発散しつつ、幻三郎は左拳を握りしめた。
「人として生きてこそ強さが意味を持つのだ。人を超えた存在として己を認めたが最後、俺は、劣弱な動物を玩び切り刻む、ただの殺戮者と化してしまう」
〔ふむ。やっぱりあんたはそういう男だったのか。何となく過去が見えるぞ〕
「ほざくな! 簡単に人間を捨てられる奴に、俺の何がわかる?」
〔わかるさ。あんたはわかりやすいんだ。真正直だからな〕
「おのれ!」
幻三郎は握った拳をがむしゃらに振り回したが、虚しく空を打つばかりだった。
〔おっとと。そう怒るなよ。冷静さがないと、衛士の攻撃はかわせんぞ〕
「お前が怒らせたのだろうが!」
〔悪い悪い。あんたには衛士に勝ってもらわなきゃならないんだった〕
「お前に心配されるには及ばん」
〔いいや、心配だ。あの腕を使えとはもう言わん。ただ、闘いの最中、そいつを抑え込み続けるのはやめた方がいい」
「何?」
〔あの腕が無意識に動くのを封じるための、余分な筋肉の緊張が、あんたの右手から力を奪っている。しかも、それに注意を払う以上、集中力の分散も避けられん。一度、あの腕のことは忘れてみたらどうだい? ちょっと動くぐらい別にいいじゃないか〕
「忠告は無用だ。俺は俺のやり方で勝つ」
幻三郎は不快感を剥き出しにして言った。
〔やれやれ。そこまで頑固とは思わなかった。なら、好きにしろ。不本意だけど、今のあんたに全てを預ける。――だが、衛士に勝ったところで、今のままだぞ〕
何が 「今のまま」 なのか、風は明らかにしない。
「そうは思わん。制約の中での厳しい闘いが俺を鍛えてくれる」
〔どうかな。信じるのは勝手だが、現実は甘くない。この先ずっとこんな調子かと思うと、もどかしくてたまらんね〕
聞こえるか聞こえないかぐらいの、独り言めかした微かな風音である。幻三郎は無言だったが、次第に荒々しい足取りになっていった。少し身体を捩じった妙な前傾姿勢で、大きな足音を立てて進む。
〔確かに、今できることを精一杯やるのも大切だ。けど、時には、今までできなかったことに挑む方がずっと大事な場合もある〕
風は幻三郎を宥めるように、ほんわりとした空気の淀みと化して深編笠を優しく包み込んだ。
「何が言いたい!」
〔俺には弟が二人いてね。一人は俺と双子の弟で、もう一人は三歳下だ〕
突然、風が話題を変える。
〔―― 末の弟は、化け物の腕を使わんあんたよりも、はっきり言って強いぞ〕
「何だと!」
〔強さの秘密は心技体の状態にある。技と体はあんたと互角で、残るは心〕
「俺の精神力が劣るというのか!」
〔違う。―― その辺は衛士と闘いの後で教えてやる〕
「なぜ、今言わん」
〔俺の言葉に耳を貸してもらうには、それなりのお膳立てが必要なようだからな。――聞きたいのなら、頼むから衛士に勝ってくれよ〕
風は懇願とも要求ともつかない言い方をした。
「俺を見くびるな!」
〔正当に評価しているつもりだがね。―― さあ、出口も近い。しばらく離れてるから、気を静めていけ〕
「偉そうに言うな!」
〔じゃあ、ずっとついててやろうか〕
「あっちへ行ってろ!」
感情に任せて幻三郎が叫ぶと、風は深編笠の脇をするりと抜けて背後に回った。
「―― 待て」
去り行く風を、ふと思い出したように呼び止める。
〔何だ?〕
「末の弟の名は……?」
風は深編笠の周りをゆっくりと回った。
〔俺が幽一郎だったんだ。三男坊の名前は想像がつかないか?]
「俺の名を 『懐かしい響き』 と言ったな」
「そう。あんたと同じ名前だよ。げんざぶろう。岬護幻三郎だ〕
言い残して風は、暗闇の中に気配を散らしていった。
続く
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