特大家族 第一章 「アレ」 の達人 その12 (小説)
アラームが鳴り、休憩タイムになったことを告げる。
覇斗と楓は互いに頷き合うと、誰からともなく固く握り合っていた右手を離した。
二人とも疲労の色が濃い。すっかり息が上がっていた。ただひたすらに技を教え技を覚えるために、激しい攻防を繰り返した結果である。やっている中身はたかが指相撲とはいえ、動きのハードさは休むことのない全身運動となんら変わりなかった。
「やあ、ライトニング・アタックは完全に防げるようになったね。もう少しで攻撃にも使えるレベルだ。楓さんは呑み込みが早いよ」
覇斗は肩を上下させながら 楓を褒めた。
どことなく師匠っぽい口調である。
投稿者:クロノイチ
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覇斗と楓は互いに頷き合うと、誰からともなく固く握り合っていた右手を離した。
二人とも疲労の色が濃い。すっかり息が上がっていた。ただひたすらに技を教え技を覚えるために、激しい攻防を繰り返した結果である。やっている中身はたかが指相撲とはいえ、動きのハードさは休むことのない全身運動となんら変わりなかった。
「やあ、ライトニング・アタックは完全に防げるようになったね。もう少しで攻撃にも使えるレベルだ。楓さんは呑み込みが早いよ」
覇斗は肩を上下させながら 楓を褒めた。
どことなく師匠っぽい口調である。
投稿者:クロノイチ



「まだまだ。攻撃に使うにはもっと練習しないと。こんな激しい技、あんたはどうやって完成させられたのよ? 東京に仲間でもいたの?」
「頭の中でシミュレーション。もしくは一人でシャドウ。あと、じいさんが暇な時には、たまに相手してもらってた。うちのじいさん、若い頃は柔道のオリンピック選手だったらしくて、結構、反応が鋭かったんだ」
「あんたのおじいさんも完璧超人だったのね」
嘆息しながら、楓は昔テレビで見た元首相の顔を思い浮かべていた。それは、厳めしく鬼瓦のようであり、覇斗の爽やかな顏とは似ても似つかない。
「いや、あの人は家事がからっきしだったから」
いかにも自分が家事のエキスパートであるかのような口ぶりである。化け物め、と楓は心の中で呟いた。
「あたしのディープ・エスケープはどう?」
「いいんじゃないかな。今の脱出スピードだと、技あり取られるかどうかギリギリって感じだけど、もうしばらく練習すれば確実に使い物になる」。
「そう。安心したわ。まだ技は幾つもあるんでしょ。あんたはあたしに新しい世界を見せたんだから、ちゃんと道案内してね。これからもずっと付き合ってもらうわよ」
「付き合うって、アレのことだけだよな」
「バカ! 当然じゃない」
顔を真っ赤にして楓は右拳を上に振り上げた。
「お、おい。ピアニスト、ピアニスト」
楓は拳を下げない。
「指を傷めたら、アレができなく……」
今度は覇斗が言い終わる前に効果が現れた。
午後九時四十分。
約束の二時間になる前に、二人は体力の限界を迎えていた。右手の握力がもはや全然ない。二人はいつしか楽な姿勢で畳に座り、肩を並べて昔語りを始めていた。
「──ハマった理由は幾つもあるわ。なんの道具も使わずすぐに遊べること。駆け引きの要素があること。あと、アレがもっとメジャーになれば色んな人とできて楽しいだろうな、なんて思ってて、『まずは家族をアレの虜にして、そこから輪を広げていこう』って伝道師みたいなことも考えちゃったりなんかして……。でも、なんといっても純粋に楽しい、っていうのが一番の理由かな。よほどあたしの嗜好に合ってたんだと思うわ」
「だろうね」
「それでも、最近はピアノと勉強に追われて、一時の熱もだいぶ治まってたのよ。情熱が戻ったのは、この市でアレの大会があると知ってから。そして、あんたにやられてからはいっそう激しく。負けたのが信じられなくて悔しくて、もっと強くなりたいと思った。家族を無理やり練習台にして、勝って勝って勝ちまくって、そしたら楽しさも蘇ってきちゃって、さらにアレがやりたくなって……」
「とうとうアレを宮城家のタブーみたいにしちゃったんだね」
覇斗がニヤニヤしながら皮肉っぽく言った。
「悪かったわね」
楓が拗ねたような口ぶりで言い返す。
「……僕はね、諦めがいいんだ」
「は?」
唐突に覇斗がそれまでの話題と全然違うことを言い出したので、楓は面食らった。
「これは多分生まれつきの性質だと思うんだけどね。そもそも僕は、『できる』と思ったことはやり遂げたり完成させたりするまで、大概粘り強く頑張ることができる。でも、元々物理的に不可能なこと、自分の力じゃ到底無理だと判断したこと、人としてやっちゃいけないと思ったことなんかは、どんなことだって恐ろしく簡単に諦めることができるんだ。それもね、後ろ髪を引かれる思いで仕方なく諦めるんじゃない。全くなんの未練も執着心もなく、いつの間にやらきれいさっぱり意識から外れてしまっているという感じなんだ」
「……そう」
楓はどう言葉を返せばいいのかわからず、相槌のみで場を凌いだ。
「未練が残らないっていうのは、心の健康にとってはいいことなのかもしれないね。すぐに気が晴れて楽になれるから。けど、そのあっけなさが却って僕にとっては恐怖だった。いつかとてつもない困難に出会った時、自分の人生さえも、『まっ、いいか』って未練なくあっさり投げ出してしまいそうな予感がしたんだ」
覇斗は、遠くを見るような目をして一旦言葉を区切った。
「だから僕は、決して諦めることのできない何かを見つけたいと願った。いざという時に諦めないでいられる自分であるために。そうすることが正しいと信じて疑わなかった」
「……うん」
「だけど、そこで道を一本間違えたらしい。諦められない何かを探すつもりが、諦めずに済む何かを探すところに逸れてしまった。諦めるという挫折を味わわずにいられ、極めるとそこそこ満足感が得られるような、そんなものを求めて袋小路に入り込んでしまったんだ。そして中学時代の僕は、自分の可能性を追求するという居心地のいい名目にとらわれ、どこか己を見失ったまま、底の浅そうなマイナー競技を極めることに明け暮れた」
そこでようやく楓は、覇斗の言わんとしていることが何なのかを掴んだ。試しにこう言ってみる。
「そのマイナー競技の一つがアレなの?」
「うん。そうだよ。マイナーなんて言って気を悪くさせたら、ごめん」
「で、結局あんたが見つけたかったものは見つかったの?」
「いや、見つからないままさ」
「見つけること自体を諦めてしまったってこと?」
「ううん、そうじゃない。見つけたい気持ちは今もあるよ。そういうものがあった方が、きっと手応えのある人生を送れると思うから。──ただね、近頃は、諦めのいい自分をそのまま肯定してもいい心境になってるんだ。僕を襲っていた得体の知れない恐怖も消えたし、諦められない何かを探さなければという強烈な衝動もなくなった。きっかけは、さっき言ってた素晴らしい景色さ。あれが僕の心の奥底に働いて、強迫観念めいたものから解き放ってくれたらしい。いったい今まで自分は何をやってたんだろうと、悪夢から覚めた気分を味わったよ」
「へえ、そんな凄い景色なら、いっぺん見てみたいわね」
楓は、先刻とは百八十度転回した反応を示した。
「じゃあ、今度一緒に行こう。ただ、予防線を張っておくよ。『もしかしたら僕にとってだけ素晴らしい景色なのかもしれない』って」
「ということは、ありきたりの雄大な景色じゃないってことね。どんなんだろう。興味をそそられるわ」
楓は次第に高柳覇斗という人間そのものに好奇心を抱き始めていた。覇斗の物の捉え方、感じ方を知るためにも、その景色を見てみたいと思う。その気持ちが、覇斗の瞳をまっすぐに貫く澄んだ眼差しと、楽しげで友好的な口調にありありと出ていた。
「え、えーと」
覇斗が思わず天井を見上げる。楓の「興味」の先が自分に向かっているのが感じられ、気恥ずかしさを覚えずにはいられない。
楓は大きな溜息を一つ吐くと、正面から覇斗の両肩をポンと両手で叩いた。
「あんたって、やっぱり、なんか変わってるのね。周りのみんなには、あんたのこと、人格・能力ともに非の打ち所のない人間のように見えてるみたいなんだけど、あたしには今までそれが納得行かなかった。状況と相手に合わせて器用に演技しているだけの八方美人で、内面に色々とドロドロしたものを隠してるんじゃないかって思ってたの。でも違ってたわ。今日、じっくりあんたと話してみてわかった。あんたは何も隠していないし自分を偽ることもしていない。誰に対しても誠実で、そして、自分の心に向き合いながらまっすぐに生きてる。そんな人、滅多にいないわ。だから、見ようによって素晴らしい人格者に見えたり、逆に途轍もなく変わった人に見えたりもするのよ」
「なるほど、君は僕が変人に見える口なんだな」
覇斗は苦笑しながらも興味深そうに言った。
「『変人』じゃなくて、あくまでも『変わった人』だからね。悪い意味で言ってるんじゃないんだから」
「そうか。僕自身は変人と呼ばれても一向に差し支えなかったんだけどな。それなりに自覚があるんでね。聖人君子みたいに思われるのははっきり言って不本意だ。でも、僕をどう見ようとその人の自由だよな。こればっかりはどうしようもない」
「ホントに諦めがいいのね」
「あ。今のは自覚してなかった」
「さすがね」
楓が妙な賛辞を送る。
ふと覇斗が壁の時計を見ると、針が間もなく十時を指そうとしていた。釣られて時計を見た楓が「あら」と意外そうな顔をする。
「もう、こんな時間? そろそろお暇しなくちゃね。今から急いで宿題やんなきゃ。うちの学校、やたらと多いのよ」
「そっか。じゃ、また明日」
先刻、二人の間で、今年の指相撲大会当日まで毎日一緒に練習を行う取り決めがなされていた。お互いどれだけ忙しかろうが、合間を縫って一分でも二分でも、とにかく毎日練習を積み重ねていく約束である。
「──あさってのピアノも楽しみにしてるよ」
「任せといて。先生に指導してもらって、しっかり仕上げとくわ」
「指導? 必要なのかい、それ」
「残念ながら、必要なのよね。あたしってまだまだ半人前だから」
急に表情を曇らせた楓がぽつりと漏らした一言は、覇斗にとって実に意外だった。ピアノコンクールで常に上位入賞している者の台詞とは到底思えない。とはいえ、楓は真顔そのものであり、とても謙遜しているふうではなかった。
「え、どういうことだい?」
「言ったでしょ。あたしは、アレが強くなりたくて、手首や指の力を鍛えるためにピアノを習い始めたの。小学二年の時よ。遅いでしょ。小さい時から習ってる子らを追い越したくて、毎日必死に練習をこなしたわ。その甲斐あって、今じゃ打鍵の力強さと正確さ、運指の滑らかさにかけては、誰にも負けてない自信はある。──でもね、ピアニストって、それだけじゃ一流とは言えないの」
「確かに。人の心を音で感動させる仕事だからね」
「あたしにはそれができないのよ。ずっとアレの訓練手段としかピアノを見てこなかったから、音楽的感性や表現力を磨くことなんて二の次だったわけ。こっちに引っ越して今の先生に習い始めたら、いきなり『きモちをこめてひきナさい』なんて言われて面食らったわ。コンクールでいい成績取れてるっていっても、優勝は一度もない。課題曲を、先生の解釈と指示に従ってただ機械的に弾いてるだけで、自分の音楽ってものがないのよね。審査員ほどの人ならわかるみたい」
楓は、溜め込んできたものを全て吐き出すようにまくし立てた。
「応援してくれてる家族には悪いけど、あたし、ピアニストとしては本当にまだまだなの。つくづく実感してるわ」
楓の表情が次第に翳を帯びたものに変わっていく。
「あれ? もしかして結構悩んでる?」
「ううん。悩むってほどじゃないわね。単にちょっと壁に突き当たってるってだけ。先生が期待するような演奏がなかなかできないから、なんか気が咎めちゃって。でも、その程度よ。ピアノはあたしにとっての最重要項目じゃないもん。今のところはね」
楓が苦笑を交えながら、今度は別段大したことなさそうな口ぶりで言う。覇斗は、万華鏡のように変わる楓の表情を観察しているうちに、彼女の心の奥底をそこから読み取ろうとするのはあまり意味がないことだと悟った。
(きっと、秘めた本音なんてものはないんだろうな。最初から最後まで、自分が思ったことを真っ正直に喋ってるだけって感じだ。なら、楓さんのピアノ、そう深刻な感じでもなさそうだし、別に心配することもないか)
覇斗はそう結論付けて、一応の安心を得た。自分の問いで楓の表情が曇るたび、触れてはならないところを刺激してしまったかもと、少々気を揉んでいたのである。
「本当に気遣いは無用よ。マジに行き詰まって気が滅入ってるんだったら、『一曲弾くから手品のタネを教えて』なんて、自分から言い出すわけないでしょ」
「あ、そうか。確かにそうだな」
覇斗はストンと胸に落ちる感覚を覚えた。僅かに残っていたモヤモヤが一瞬にして消え去っていく。なぜ自分がこんなにもホッとした気持ちになるのだろうと考えて、覇斗は、はたと気が付いた。ずっと「会うたびにしつこく指相撲を迫ってくる、ちょっと扱いに困る女子」としか認識してこなかった楓に対して、いつの間にか、そこはかとない好意を抱いてしまっていることに。
(がむしゃらで裏表がなくて面白い人だな、楓さんは。何かと突っかかってくる印象があったけど、じっくり話してみると全然違ってた。やっぱり会話って大事だな)
覇斗が、十年来の友人に向けるような親しみを帯びた視線を楓に送る。すると、楓も何か思うところがあったのか、急にはにかんだような笑顔を浮かべ、
「あんまりじっと見ないでよ」
と小声で言った。
第一章 了
第一章 終了です。
段々、主人公の変わった精神構造が明らかになってきました。でも、まだまだこれからです。悪いヤツではないので見捨てないでください。
ここまで笑えるようなネタはほとんどありませんでしたが、次の章では一つだけ大ネタが出てきます。ちょっと下品なので人を選ぶかもしれません。
その辺を頑張って乗り越えていただけると、その次の章は痛快指相撲大会です。必殺技続出で、きっと退屈しないと思います。
では、第二章でお会いしましょう。
「頭の中でシミュレーション。もしくは一人でシャドウ。あと、じいさんが暇な時には、たまに相手してもらってた。うちのじいさん、若い頃は柔道のオリンピック選手だったらしくて、結構、反応が鋭かったんだ」
「あんたのおじいさんも完璧超人だったのね」
嘆息しながら、楓は昔テレビで見た元首相の顔を思い浮かべていた。それは、厳めしく鬼瓦のようであり、覇斗の爽やかな顏とは似ても似つかない。
「いや、あの人は家事がからっきしだったから」
いかにも自分が家事のエキスパートであるかのような口ぶりである。化け物め、と楓は心の中で呟いた。
「あたしのディープ・エスケープはどう?」
「いいんじゃないかな。今の脱出スピードだと、技あり取られるかどうかギリギリって感じだけど、もうしばらく練習すれば確実に使い物になる」。
「そう。安心したわ。まだ技は幾つもあるんでしょ。あんたはあたしに新しい世界を見せたんだから、ちゃんと道案内してね。これからもずっと付き合ってもらうわよ」
「付き合うって、アレのことだけだよな」
「バカ! 当然じゃない」
顔を真っ赤にして楓は右拳を上に振り上げた。
「お、おい。ピアニスト、ピアニスト」
楓は拳を下げない。
「指を傷めたら、アレができなく……」
今度は覇斗が言い終わる前に効果が現れた。
午後九時四十分。
約束の二時間になる前に、二人は体力の限界を迎えていた。右手の握力がもはや全然ない。二人はいつしか楽な姿勢で畳に座り、肩を並べて昔語りを始めていた。
「──ハマった理由は幾つもあるわ。なんの道具も使わずすぐに遊べること。駆け引きの要素があること。あと、アレがもっとメジャーになれば色んな人とできて楽しいだろうな、なんて思ってて、『まずは家族をアレの虜にして、そこから輪を広げていこう』って伝道師みたいなことも考えちゃったりなんかして……。でも、なんといっても純粋に楽しい、っていうのが一番の理由かな。よほどあたしの嗜好に合ってたんだと思うわ」
「だろうね」
「それでも、最近はピアノと勉強に追われて、一時の熱もだいぶ治まってたのよ。情熱が戻ったのは、この市でアレの大会があると知ってから。そして、あんたにやられてからはいっそう激しく。負けたのが信じられなくて悔しくて、もっと強くなりたいと思った。家族を無理やり練習台にして、勝って勝って勝ちまくって、そしたら楽しさも蘇ってきちゃって、さらにアレがやりたくなって……」
「とうとうアレを宮城家のタブーみたいにしちゃったんだね」
覇斗がニヤニヤしながら皮肉っぽく言った。
「悪かったわね」
楓が拗ねたような口ぶりで言い返す。
「……僕はね、諦めがいいんだ」
「は?」
唐突に覇斗がそれまでの話題と全然違うことを言い出したので、楓は面食らった。
「これは多分生まれつきの性質だと思うんだけどね。そもそも僕は、『できる』と思ったことはやり遂げたり完成させたりするまで、大概粘り強く頑張ることができる。でも、元々物理的に不可能なこと、自分の力じゃ到底無理だと判断したこと、人としてやっちゃいけないと思ったことなんかは、どんなことだって恐ろしく簡単に諦めることができるんだ。それもね、後ろ髪を引かれる思いで仕方なく諦めるんじゃない。全くなんの未練も執着心もなく、いつの間にやらきれいさっぱり意識から外れてしまっているという感じなんだ」
「……そう」
楓はどう言葉を返せばいいのかわからず、相槌のみで場を凌いだ。
「未練が残らないっていうのは、心の健康にとってはいいことなのかもしれないね。すぐに気が晴れて楽になれるから。けど、そのあっけなさが却って僕にとっては恐怖だった。いつかとてつもない困難に出会った時、自分の人生さえも、『まっ、いいか』って未練なくあっさり投げ出してしまいそうな予感がしたんだ」
覇斗は、遠くを見るような目をして一旦言葉を区切った。
「だから僕は、決して諦めることのできない何かを見つけたいと願った。いざという時に諦めないでいられる自分であるために。そうすることが正しいと信じて疑わなかった」
「……うん」
「だけど、そこで道を一本間違えたらしい。諦められない何かを探すつもりが、諦めずに済む何かを探すところに逸れてしまった。諦めるという挫折を味わわずにいられ、極めるとそこそこ満足感が得られるような、そんなものを求めて袋小路に入り込んでしまったんだ。そして中学時代の僕は、自分の可能性を追求するという居心地のいい名目にとらわれ、どこか己を見失ったまま、底の浅そうなマイナー競技を極めることに明け暮れた」
そこでようやく楓は、覇斗の言わんとしていることが何なのかを掴んだ。試しにこう言ってみる。
「そのマイナー競技の一つがアレなの?」
「うん。そうだよ。マイナーなんて言って気を悪くさせたら、ごめん」
「で、結局あんたが見つけたかったものは見つかったの?」
「いや、見つからないままさ」
「見つけること自体を諦めてしまったってこと?」
「ううん、そうじゃない。見つけたい気持ちは今もあるよ。そういうものがあった方が、きっと手応えのある人生を送れると思うから。──ただね、近頃は、諦めのいい自分をそのまま肯定してもいい心境になってるんだ。僕を襲っていた得体の知れない恐怖も消えたし、諦められない何かを探さなければという強烈な衝動もなくなった。きっかけは、さっき言ってた素晴らしい景色さ。あれが僕の心の奥底に働いて、強迫観念めいたものから解き放ってくれたらしい。いったい今まで自分は何をやってたんだろうと、悪夢から覚めた気分を味わったよ」
「へえ、そんな凄い景色なら、いっぺん見てみたいわね」
楓は、先刻とは百八十度転回した反応を示した。
「じゃあ、今度一緒に行こう。ただ、予防線を張っておくよ。『もしかしたら僕にとってだけ素晴らしい景色なのかもしれない』って」
「ということは、ありきたりの雄大な景色じゃないってことね。どんなんだろう。興味をそそられるわ」
楓は次第に高柳覇斗という人間そのものに好奇心を抱き始めていた。覇斗の物の捉え方、感じ方を知るためにも、その景色を見てみたいと思う。その気持ちが、覇斗の瞳をまっすぐに貫く澄んだ眼差しと、楽しげで友好的な口調にありありと出ていた。
「え、えーと」
覇斗が思わず天井を見上げる。楓の「興味」の先が自分に向かっているのが感じられ、気恥ずかしさを覚えずにはいられない。
楓は大きな溜息を一つ吐くと、正面から覇斗の両肩をポンと両手で叩いた。
「あんたって、やっぱり、なんか変わってるのね。周りのみんなには、あんたのこと、人格・能力ともに非の打ち所のない人間のように見えてるみたいなんだけど、あたしには今までそれが納得行かなかった。状況と相手に合わせて器用に演技しているだけの八方美人で、内面に色々とドロドロしたものを隠してるんじゃないかって思ってたの。でも違ってたわ。今日、じっくりあんたと話してみてわかった。あんたは何も隠していないし自分を偽ることもしていない。誰に対しても誠実で、そして、自分の心に向き合いながらまっすぐに生きてる。そんな人、滅多にいないわ。だから、見ようによって素晴らしい人格者に見えたり、逆に途轍もなく変わった人に見えたりもするのよ」
「なるほど、君は僕が変人に見える口なんだな」
覇斗は苦笑しながらも興味深そうに言った。
「『変人』じゃなくて、あくまでも『変わった人』だからね。悪い意味で言ってるんじゃないんだから」
「そうか。僕自身は変人と呼ばれても一向に差し支えなかったんだけどな。それなりに自覚があるんでね。聖人君子みたいに思われるのははっきり言って不本意だ。でも、僕をどう見ようとその人の自由だよな。こればっかりはどうしようもない」
「ホントに諦めがいいのね」
「あ。今のは自覚してなかった」
「さすがね」
楓が妙な賛辞を送る。
ふと覇斗が壁の時計を見ると、針が間もなく十時を指そうとしていた。釣られて時計を見た楓が「あら」と意外そうな顔をする。
「もう、こんな時間? そろそろお暇しなくちゃね。今から急いで宿題やんなきゃ。うちの学校、やたらと多いのよ」
「そっか。じゃ、また明日」
先刻、二人の間で、今年の指相撲大会当日まで毎日一緒に練習を行う取り決めがなされていた。お互いどれだけ忙しかろうが、合間を縫って一分でも二分でも、とにかく毎日練習を積み重ねていく約束である。
「──あさってのピアノも楽しみにしてるよ」
「任せといて。先生に指導してもらって、しっかり仕上げとくわ」
「指導? 必要なのかい、それ」
「残念ながら、必要なのよね。あたしってまだまだ半人前だから」
急に表情を曇らせた楓がぽつりと漏らした一言は、覇斗にとって実に意外だった。ピアノコンクールで常に上位入賞している者の台詞とは到底思えない。とはいえ、楓は真顔そのものであり、とても謙遜しているふうではなかった。
「え、どういうことだい?」
「言ったでしょ。あたしは、アレが強くなりたくて、手首や指の力を鍛えるためにピアノを習い始めたの。小学二年の時よ。遅いでしょ。小さい時から習ってる子らを追い越したくて、毎日必死に練習をこなしたわ。その甲斐あって、今じゃ打鍵の力強さと正確さ、運指の滑らかさにかけては、誰にも負けてない自信はある。──でもね、ピアニストって、それだけじゃ一流とは言えないの」
「確かに。人の心を音で感動させる仕事だからね」
「あたしにはそれができないのよ。ずっとアレの訓練手段としかピアノを見てこなかったから、音楽的感性や表現力を磨くことなんて二の次だったわけ。こっちに引っ越して今の先生に習い始めたら、いきなり『きモちをこめてひきナさい』なんて言われて面食らったわ。コンクールでいい成績取れてるっていっても、優勝は一度もない。課題曲を、先生の解釈と指示に従ってただ機械的に弾いてるだけで、自分の音楽ってものがないのよね。審査員ほどの人ならわかるみたい」
楓は、溜め込んできたものを全て吐き出すようにまくし立てた。
「応援してくれてる家族には悪いけど、あたし、ピアニストとしては本当にまだまだなの。つくづく実感してるわ」
楓の表情が次第に翳を帯びたものに変わっていく。
「あれ? もしかして結構悩んでる?」
「ううん。悩むってほどじゃないわね。単にちょっと壁に突き当たってるってだけ。先生が期待するような演奏がなかなかできないから、なんか気が咎めちゃって。でも、その程度よ。ピアノはあたしにとっての最重要項目じゃないもん。今のところはね」
楓が苦笑を交えながら、今度は別段大したことなさそうな口ぶりで言う。覇斗は、万華鏡のように変わる楓の表情を観察しているうちに、彼女の心の奥底をそこから読み取ろうとするのはあまり意味がないことだと悟った。
(きっと、秘めた本音なんてものはないんだろうな。最初から最後まで、自分が思ったことを真っ正直に喋ってるだけって感じだ。なら、楓さんのピアノ、そう深刻な感じでもなさそうだし、別に心配することもないか)
覇斗はそう結論付けて、一応の安心を得た。自分の問いで楓の表情が曇るたび、触れてはならないところを刺激してしまったかもと、少々気を揉んでいたのである。
「本当に気遣いは無用よ。マジに行き詰まって気が滅入ってるんだったら、『一曲弾くから手品のタネを教えて』なんて、自分から言い出すわけないでしょ」
「あ、そうか。確かにそうだな」
覇斗はストンと胸に落ちる感覚を覚えた。僅かに残っていたモヤモヤが一瞬にして消え去っていく。なぜ自分がこんなにもホッとした気持ちになるのだろうと考えて、覇斗は、はたと気が付いた。ずっと「会うたびにしつこく指相撲を迫ってくる、ちょっと扱いに困る女子」としか認識してこなかった楓に対して、いつの間にか、そこはかとない好意を抱いてしまっていることに。
(がむしゃらで裏表がなくて面白い人だな、楓さんは。何かと突っかかってくる印象があったけど、じっくり話してみると全然違ってた。やっぱり会話って大事だな)
覇斗が、十年来の友人に向けるような親しみを帯びた視線を楓に送る。すると、楓も何か思うところがあったのか、急にはにかんだような笑顔を浮かべ、
「あんまりじっと見ないでよ」
と小声で言った。
第一章 了
第一章 終了です。
段々、主人公の変わった精神構造が明らかになってきました。でも、まだまだこれからです。悪いヤツではないので見捨てないでください。
ここまで笑えるようなネタはほとんどありませんでしたが、次の章では一つだけ大ネタが出てきます。ちょっと下品なので人を選ぶかもしれません。
その辺を頑張って乗り越えていただけると、その次の章は痛快指相撲大会です。必殺技続出で、きっと退屈しないと思います。
では、第二章でお会いしましょう。
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