国府 多賀城 Ⅰ (宮城県 多賀城市)
国府多賀城は、奈良県・平城京、福岡県・大宰府とともに日本三大史跡の一つになっていて、遠の朝廷(とおのみかど)として、軍事のみならず政治の拠点して栄えた古代都市であった。
だだ、三大史跡の中で知名度が低いのは 多賀城 でしょうねー。。。
平城京 は 「ナントきれいな平城京」 で、当時の日本の中心で、もっとも美しい都だったということで、日本中から多くの観光客が集まってくる。
太宰府 には、学問の神様 菅原道真 が祀られている超有名な太宰府天満宮がある。
それに比べ多賀城は。。。(笑)

多賀城南門 跡地
エミシの豪族 伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)の反乱で焼き払われという。
多賀城が攻撃されたのはあとにも先にもこれが初めて。大和朝廷を震撼させた反乱でもあった。
大宰府には、国境警備隊として 防人(さきもり) が配備されいてた。防人は、武人・軍人ではなく 屯田兵(とんでんへい) みたいなものである。
陸続きではく、目の前には海が広がっている。当然、緊張感はなく、名ばかりの国境警備隊であった。
しかし、多賀城は違う。
「まつろわぬ民」、政治的、軍事的抵抗集団エミシの支配する土地と地続きの多賀城は、漂っている緊張感が全然違うのである。
多賀城に配備されていたのは、朝廷の命を受けた坂東武者の精鋭部隊であった。

南門跡地にある説明板
多賀城の正面に位置するこの門は、豪華絢爛で多賀城のシンボルの一つであったらしい。
平城京で言えば朱雀門ですね。(復元してくれないかなー。。。)
多賀城、最近では 「ミニ平城京」 と呼ばれており、大宰府が九州地方を統括する官庁だったように、ここは東北地方全体を統括する官庁であった。
政治・軍事の拠点として栄えた多賀城、常時一万人もの人々が暮らす「北の都」でもあった。
投稿者: 霧島
【人気blogランキング】 ←クリック投票に協力して下さいませっ!
【にほんブログ村 ニュースブログ】 ← こちらもクリックお願いしますっ!
← クリック投票に協力を! 編集部・執筆陣のやる気がUPします!
だだ、三大史跡の中で知名度が低いのは 多賀城 でしょうねー。。。
平城京 は 「ナントきれいな平城京」 で、当時の日本の中心で、もっとも美しい都だったということで、日本中から多くの観光客が集まってくる。
太宰府 には、学問の神様 菅原道真 が祀られている超有名な太宰府天満宮がある。
それに比べ多賀城は。。。(笑)

多賀城南門 跡地
エミシの豪族 伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)の反乱で焼き払われという。
多賀城が攻撃されたのはあとにも先にもこれが初めて。大和朝廷を震撼させた反乱でもあった。
大宰府には、国境警備隊として 防人(さきもり) が配備されいてた。防人は、武人・軍人ではなく 屯田兵(とんでんへい) みたいなものである。
陸続きではく、目の前には海が広がっている。当然、緊張感はなく、名ばかりの国境警備隊であった。
しかし、多賀城は違う。
「まつろわぬ民」、政治的、軍事的抵抗集団エミシの支配する土地と地続きの多賀城は、漂っている緊張感が全然違うのである。
多賀城に配備されていたのは、朝廷の命を受けた坂東武者の精鋭部隊であった。

南門跡地にある説明板
多賀城の正面に位置するこの門は、豪華絢爛で多賀城のシンボルの一つであったらしい。
平城京で言えば朱雀門ですね。(復元してくれないかなー。。。)
多賀城、最近では 「ミニ平城京」 と呼ばれており、大宰府が九州地方を統括する官庁だったように、ここは東北地方全体を統括する官庁であった。
政治・軍事の拠点として栄えた多賀城、常時一万人もの人々が暮らす「北の都」でもあった。
投稿者: 霧島
【人気blogランキング】 ←クリック投票に協力して下さいませっ!
【にほんブログ村 ニュースブログ】 ← こちらもクリックお願いしますっ!
- 関連記事
-
-
東日本巨大地震 (仙台市青葉区より) 2011/03/13
-
国府 多賀城 Ⅱ (宮城県 多賀城市) 2011/02/21
-
国府 多賀城 Ⅰ (宮城県 多賀城市) 2011/01/21
-
前九年の役 河崎柵(かわさきのさく)跡 2011/01/11
-
前九年の役 黄海の戦い (黄海 古戦場跡) 2011/01/07
-


