前九年の役 黄海の戦い (黄海 古戦場跡)

 1057年11月、エミシの豪族 安倍頼時(安倍貞任・宗任の父)が戦死したのを機に一気に安倍氏残党を殲滅しようと、源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ、八幡太郎義家)親子は、約1800の兵を率いて国府多賀城を出陣した。


 目指すは、現在の岩手県最南部、宮城県と接する 東磐井郡藤沢町黄海(きのみ)。

 源頼義は、論功行賞を早く受けようとして焦ったのか、かなり不利な雪の中での戦いになることを承知で出陣したのでした。

 迎え撃つのは、安倍貞任(あべのさだとう)率いるエミシ軍の精鋭部隊4000騎!寒い冬の雪の中での戦いにも精通していた。





「古代東北の英雄たち 黄海(きのみ)の合戦」 の説明板
 
「古代東北の英雄たち 黄海(きのみ)の合戦」 の説明板

 
 黄海地区の公民館にありました。

 
 両軍は、ここ黄海(きのみ)の原野で激突した。

 厳冬の吹雪のなかでの戦い、多勢に無勢、長期遠征による人馬の疲労、食料不足。。。。

 勝敗はすでに決まっていた。一塊になって陣を張っていた朝廷軍を安倍氏の精鋭部隊4000騎が包囲し、一斉攻撃を仕掛けたのでした。





黄海川

黄海川


 北上川の支流である。

 
 安倍貞任率いるエミシ軍と源頼義・義家率いる朝廷軍は、この川を挟んで対峙した。

 朝廷軍は大敗を喫しました。戦死者は数百人にのぼり、参謀格の有力な武士を多数失う大打撃を受けたのです。 
 源頼義・義家父子は、わずか7騎になりながらも隙をついて包囲網を逃れ、やっとの思いで国府多賀城にたどり着くことができたのでした。 






投稿者: 霧島





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コメント 1

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霧島
2011/01/14 (Fri) 20:20

昭和30年代

中央のマスコミは、岩手(北上山地)を
「日本のチベット」なとど蔑称していた!

まったぐ、岩手の人にもチベット人にも
失礼千万なことだべ!!(爆)

ここ黄海(きのみ)は、北上山地の南端に位置するべ。


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