前九年の役 衣川の戦い (衣川柵跡)
衣川関(ころもがわのせき)は、道が狭くて険しく、函谷関にも引けをとらない関といわれ、 東側を北上川が流れ、南側を衣川が流れていて、さらに北側は山の絶壁が塞ぎ、まさに天然の要害になっていました。
1062年9月上旬、源頼義・義家親子率いる朝廷軍と出羽の清原氏の連合軍は、難攻不落と言われた衣川の関を、わずか一日で落とし衣川柵に迫りました。
衣川関は、有名な枕詞にもなっていて、古来多くの歌に詠まれている。
「もろともに 立たましものを みちのくの衣の関をよそに聞くかな」 和泉式部
(私たちの仲が絶えていなければ、一緒に出発したものを。あなたが越えて行く陸奥の衣の関を、他人事として聞くのですね)

衣川柵跡(並木屋敷跡)
このあたりが広大な衣川柵の中枢部分、安倍氏の政庁跡である。
安倍氏滅亡後は清原氏の館となり、桜並木に囲まれていたため、並木屋敷と呼ばれるようになったという。
衣川柵に篭り必死の反撃を行なう安倍貞任らに手を焼いた朝廷軍は、特殊部隊を柵の中に忍び込ませて放火するという奇襲作戦にでます。
安倍勢は、この火災に驚き混乱状態になりました。 この隙に、朝廷軍は激しく攻め立て、 ついに柵は業火につつまれて陥落したのでした。
投稿者: 霧島
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