前九年の役 阿久利川の事件 (阿久利川 古戦場跡)

 宮城県栗原市志波姫(しわひめ)阿久戸(あくと)。鬼切部の戦い以降、平静を保っていた安倍氏と朝廷側であったが、ここで再び対立に発展する重要な 「事件」 が起こったのである。


 1056年、陸奥守(むつのかみ、奥州の国府多賀城の長官)源義家(みなもとのよしいえ)の任期が終わる頃、義家の軍勢が胆沢城から多賀城に帰還する途中、阿久利川(あくとがわ、現在の一迫川)河畔で野営をしていた時、部下である藤原光貞(ふじわらのみつさだ)の宿舎が襲われ、多数の兵士と馬が殺害されたという。





一迫川沿いにある古戦場跡

一迫川沿いにある古戦場跡


 藤原光貞は、これは安倍頼良(あべのよりよし)の長男である安倍貞任(あべのさだとう)の仕業だと、決めつけて訴えたのである。

 なぜなら、貞任が自分の妹に求婚してきたときに 「エミシである貞任に妹はやれない」 と、一喝したことを根にもっていたからだという。

 この訴えを聞いた、陸奥守源義家は一方的に安倍貞任を差し出すことを命じ、安倍氏がこの命令を拒否したため、両者の間で、また戦いが始まったのである。





説明板と標柱

古戦場跡にある説明板と標柱


 陸奥守源義家の一方的な嫌疑のかけ方と処罰の理不尽さに安倍頼良は、以下のような決意表明をし数万の大軍勢の朝廷軍に戦いを挑んでいったのである。

 「人はこの世で妻子を思って生きている。貞任が愚かな子であったとしても親子の情として、ただ黙して誅(ちゅう、罪ある者を殺すこと)に服させることなどできぬ。それなら衣川の関を閉じての源義家の命令を拒否するほうがましだ。軍勢が攻めてきて一族決死の戦になることも悔いぬ。戦いに利もなく私が死ぬようなことになってもかまわぬ。」






投稿者: 霧島





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1 Comments

霧島

阿久利川、あくとがわ って読むんだな!
利根川って読むべ!(爆)

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阿久利川事件 [編集]
頼義の陸奥守としての任期が終わる1056年(天喜4年)2月、阿久利川事件と呼ばれる謎の事件が発生する。『陸奥話記』によると、事件の経緯はこうである。ある時、頼義が鎮守府から国府に戻る為に阿久利川の河畔[2]に野営していると、密かに頼義の元に密使が来て、「(頼義配下の在庁官人)藤原光貞と元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た。」との情報が伝えられた。頼義が光貞を呼び出して事情を聞いたところ、光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と語った。そこで怒った頼義が貞任を呼び出したところ、頼時は貞任の出頭を拒否した為、再び安倍氏と朝廷は戦いに突入したとされる。

この事件については、過去には頼義による謀略説が唱えられていたが、現在では、藤原説貞(光貞、元貞の父)などの反安倍氏の在庁官人による謀略説が有力視されている。

『陸奥話記』によると、このとき衣川の南にいた平永衡・藤原経清(亘理権大夫)は頼義に従い配下の将となっていたが頼時の女婿であり、いつ裏切るかも知れないと疑われる微妙な立場にあった。この時点で永衡が陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言をうけ、これを信じた頼義は永衡を粛清した。同じ女婿という立場で将軍に従っていた経清は累が自分に及ぶと考え、偽情報を発し頼義軍が多賀城に急行している間に安倍軍に帰属した。経清の安倍氏帰属は前九年の役が長引く一因ともなった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9

  • 2010/12/22 (Wed) 22:35
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