昭和45年3月24日 「力石徹の葬儀」に参列した僕は、5歳だった! Re-UP

力石の極限までの減量と、矢吹 丈との壮絶な試合と死...
そして、弱冠5歳にして大阪から東京へ、たった1人で力石の葬儀に参列?した僕の思い出話...
力石には減量を失敗してでも、生きていてほしかった。
マンモス西は夜中に屋台のうどんを食っていたのを、ジョーに見つかって、そのままジョーにノック・アウトされたが、力石には吉野家で「豚丼」を思いきっり食べてもらいたい!
こういう僕は少年マガジンに「あしたのジョー」が連載されていた当時、力石の葬式に参列(というか、紛れ込んだ)した最年少の存在ではないだろうか?
当時、昭和45年3月14日に、大阪で万博が開催され、大阪はスゴイ数の人達が集まってきていた。
その人でごった返す新大阪駅を後にして、葬儀開催の当日、3月24日に新幹線に乗り、東京は文京区音羽の講談社講堂を目指した僕は、若干...5歳。
ジョーも力石も実在していると信じて疑わなかった。虚構と現実と万博と人類の未来と進歩と調和が、全てが、頭の中でごっちゃになった幼稚園児だった。
この日は平日だったので、幼稚園を突如、抜け出して..もちろん、幼稚園は失踪事件で大騒ぎだ。
僕は「リキイシ」「ソウシキ」とだけ言い残して、兄が買った少年マガジンを片手に、新幹線に乗り、当時は子供は全て運賃無料だったのを、いいことに東京まで1人で行った。
道に迷ったら、大人に「少年マガジンの記事」を見せて、案内してもらうというのを繰り返し、なんとか、リングが設置された特設会場までたどり着いたが、全然前が見えなくて、親切な男の人の肩車で一部始終を見た。
その人は僕の事を、関係者の子供だとばかり思い込んでいたが、後で僕が関西弁で喋っているのを不審に思い、警察に連絡。
そのまま、東京見物をする事も無く大阪へ強制送還(笑)。親が新大阪駅まで迎えにきて、僕はこっぴどく怒られたが、その行動力に対して親が将来を期待したらしい。
結局、僕は、親の期待に答えることはできず、80年代のサブ・カルチャー ~ クラブ・カルチャーに、どっぷりと浸かりこんで、こんな不良中年になってしまったが..(爆)
この話については40年近くも前の事だし、幼児期の事なので、1度、思い出した事を整理してみたいと思っています。
某脚本家(ぐっちゃん、ともいう)が、僕の幼少期~青年期にかけてを戯曲に書いて、演劇化したいと申されるので、いつの日にか・・・
投稿者: Anthony
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